京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

清凉寺  生身の釈迦像 それはホンモノと入れかわったのか

大変なものが 清凉寺の所蔵する「釈迦如来立像」に対して、文化庁が国宝指定のための調査を行ったのは、昭和28年7月29日のことでした。 調査員が像の背面を調べようと、まず光背(こうはい)をはずし、その背面に手をあてたとき、ズズッと何かが下へす…

東寺  言葉だけではたどりつけない世界 立体曼荼羅

ただ一度だけの炎上 延暦13(794)年、桓武天皇は京都遷都にともない、羅城門を挟んで二つの寺、東寺と西寺の建設を命じました。 平安京を守護するための官寺として建立されたのですが、外国からの来賓客の宿泊に主に使用されていました。 そして東寺の…

高台寺  秀吉とねね ふたりで築いてきたもの

ねねという女性(ひと) 洛中の七条通りを東の方角へ突き当るまで進み、京都女子大学のある坂を越えてさらに進むと、五百段もある大階段が見えてきます。 その気の遠くなるような長い階段をのぼりきったところにあるのが、豊臣秀吉の墓である豊国廟です。 は…

高山寺 明恵  あるべきように 自然のままに

慈悲の人 明恵 京都・栂尾(とがのお)にある世界遺産のひとつ高山寺。鎌倉時代、ここに明恵(みょうえ)という高僧がいました。 一般的にはほとんどその名は知られていないのですが、大学受験には頻繁に出題されるため、高校の教科書などには掲載されていま…

麟祥院 春日局の生涯  信じている 強さがいいと

斎藤 福という娘 麟祥院(りんしょういん)は徳川家光によって、1634年に、乳母の春日局のための菩提寺として建立されました。 日本最大規模の禅寺である妙心寺、その48ある塔頭のひとつとして、海北友雪や狩野探幽が描いた美術画の寺宝が伝わる格式高…

日野富子 抜群の経済センス すべてのものが思い通りに光る

悪女と呼ばれて 室町幕府八代将軍・足利義政の正室であり、希代の悪女と呼ばれた日野富子。 尼将軍と名高い北条政子に匹敵する女傑だと好評価がある一方で、悪女、悪妻、応仁の乱の主犯、高利貸、守銭奴と、ありとあらゆる酷評も伝わります。 そして当時、富…

大徳寺  千利休と山門事件 隠された真実

千利休自刃の原因とされている山門事件、それは大徳寺で起こりました。 山門事件とは、利休をモデルにした木像が大徳寺の山門上に安置されたことで、豊臣秀吉の怒りをかってしまった事件のことです。 ですが、さまざまな歴史検証が行われてくると、どうやら…

堀川六条 義経邸での出来事  弟を許さなかった頼朝

兄はなぜ怒っているのか 文治元(1185)年、源頼朝の密命を受けた土佐坊昌俊(しょうしゅん)が京へと向かっていました。 目指すその場所は、現在の西本願寺の近くにあった源義経と恋人の静、その二人が住む邸宅です。 このとき義経は、実の兄である頼朝…

室町幕府 崩壊のきざし  それは下剋上のはじまり

突然の出来事 長享3(1489)年、室町幕府第9代将軍・義尚(よしひさ)は、弱冠25歳の身でありながら、近江の陣中で戦死しました。 この予期せぬ事態により、足利将軍の座が空白になったので、隠居の身でありながらも大殿の立場にあった義尚の父・義…

室町幕府  導かれた場所 室町今出川上る

はじまりの場所 足利政権のはじまりのときに、どこに幕府を開くのか、鎌倉にするべきか、それとも京都にするべきなのかという議論が繰り返し行われました。 新たな幕府にとって政権の所在地をどこにするのかは、極めて重要なテーマだったからです。 そして、…

向島城  観月のために築城された幻の城

月見のためだけに 京都伏見の地にあった幻の城といわれた向島城。 隅田川の近く、むこうじま ではなく、むかいじま と読みます。 豊臣秀吉の別荘として建築されたのですが、秀吉の死後8ヶ月後には徳川家康が城主となりました。 現在の向島地域では城跡を感…

五山送り火  夏の夜空にゆらめく炎

乾いた静かな夜空に、炎がゆらめく五山送り火は、夏の京都の風物詩。 大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形と次々に浮かび上がり、儚く消えていきます。 毎年8月16日に、お盆に帰ってきた先祖の霊を壮大な送り火で見送るこの風習は、洛中に脈々と伝承さ…

細川ガラシャ  山城の花嫁 その美麗比喩なく

天正6年8月、明智光秀の三女・玉は、勝竜寺城に居城する細川忠興のもとへと嫁ぎました。 父と暮らしていた近江・坂本城から、かごに揺られながら比叡山を超え、山城国へとやってきたのです。 城下町にやってきた花嫁は、「容顔の美麗比喩なく」と、あっと…

二条城障壁画  御用絵師 狩野家

ただひとつだけ遺された将軍の住居 戦国時代以降、城郭造営はいちじるしく発展をとげました。 鉄砲の伝来によって戦争の在り方が大きく変わったこともあり、天下統一を目論む武将たちが、攻防戦によるその効用を重視したからです。 そして、安土桃山時代から…

智積院  根来寺の炎上から  少しでも前へ 

成田不動で有名な「成田山新勝寺」、初詣の人々で賑わう「川崎大師平間寺」、日帰り登山の聖地、高尾山「薬王院」。 いずれも関東屈指の大寺院ですが、この三つの名刹は新義真言宗・智山派に所属し、宗団の東日本における拠点となっています。 そして、それ…

祥雲寺  東山七条 地下に眠る歴史的・客殿遺構

東山七条にある名刹・智積院(ちしゃくいん)の講堂が平成4年に再建されたとき、事前に建設予定地の調査が改めて行われたことで、歴史的な遺構が発掘されました。 なんと、智積院の前身寺院として知られる祥雲寺の桃山時代の客殿遺構が見つかったのです。 …

龍安寺  謎につつまれた石庭 義政と庭師たちの有縁 

研ぎ澄まされた静寂の空間 嵯峨野から金閣寺へと続く、きぬかけの路(みち)。 その霊気がただよう路から視線を上げると、すぐそこに、衣笠山(きぬがさやま)から朱山(しゅざん)が連なっているのが見えます。 この山々のふもと一帯は、平安時代末ごろの天…

伏見城  鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦

激戦地 伏見城 慶長5(1600)年、関ケ原の戦いに突入するころ、京都・木幡山にある伏見城は、前哨戦とされる激戦地になっていました。 徳川家康がその生涯で最も信頼したという老臣・鳥居元忠(もとただ)。 その元忠を総司令として伏見城を占拠する東…

飛雲閣 秀吉の足跡  それは聚楽第・伏見城の遺構なのか

西本願寺の境内にそびえる国宝・飛雲閣は、金閣寺、銀閣寺とともに京都三名閣と呼ばれています。 豊臣秀吉が造営した聚楽第の遺構なのだと、以前はそう伝えられていました。 じつは、はっきりとした確証がいまだ得られていないために、真か偽なのか論証は続…

鞍馬寺  毘沙門天立像  わずかな光のなかに道はある

はるか彼方を見すえる鞍馬寺の毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)。 左手を額あたりにかざして、遠く、平安の都を見守っています。 北方から都を守護するため、秘境の霊山というその場所に立ち続けてきました。 ま昼でさえ漆黒のような暗闇に覆われる…

銀沙灘と向月台  月に照らされた 青の世界

ユートピア 文明14(1482)年、応仁の乱が終わり、世の中が少し落ち着きはじめると、前将軍・足利義政は、頓挫していた山荘邸宅の造営に再び執りかかりました。 すなわち、現在「銀閣寺」と呼ばれている寺のことですが、もともとは、義政の終の棲家と…

西園寺家と日野名子  ふたりの明日

西園寺家をよろしく頼むべし 西園寺公経(さいおんじ きんつね)を事実上のルーツとする京都・西園寺家と、鎌倉・北条家のつながりは密接でした。 承久3(1221)年、武家政権から実権を取り返すために後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱。 太政大臣の西園寺…

糺の森  ひとびとが行きかう鎮守の森 光が地を包む

針葉樹じゃなくて広葉樹 日本の神様は、静かな暗い所がお好きなので、深い緑に包まれた森に鎮座されます。 いちばん好適なのは、スギやヒノキなどの常緑の針葉樹が立ち並ぶ、そんな場所です。 なぜなら、よく茂った樹々の緑葉が陽射しを遮り、うっそうと辺り…

琳派のはじまり  本阿弥家の偉大なる母 妙秀

天下泰平の訪れ 徳川家が豊臣家を滅ぼし、天下泰平をついに成し得たとき、彼らは江戸を拠点として、実質的な全国支配を着々と整えていきました。 一方、そのころ京都では、この新しい武断政権の統制に対抗するように、皇室文化を伝承していこうという気風が…

広隆寺 弥勒菩薩半跏像  口もとにたたえるアルカイック・スマイル

日本美術を守ったフェノロサ 明治初期、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる奈良・京都では多くの仏像や仏画が犠牲となりました。 当時、奈良・京都を頻繁に訪れていた東京大学教授のアーネスト・フェノロサは、この現状に強い危機感を抱いています。 というのも、この…

水の都  扉を開けたら 霧雨のなかの平安京 

それは歴史的発見 平成11年、神泉苑にほど近い京都市立西京商業高校のグラウンドが発掘され、極めて貴重な遺跡が発見されました。 それは平安時代の寝殿造り、貴族の邸宅と池泉庭園が、そっくりそのままの形で姿を現したのです。 池の大きさは、東西15メ…

醍醐の花見  京極竜子の生涯 圧倒的なその美貌

桜舞い散るその下で 慶長3(1598)年、豊臣秀吉によって名刹・醍醐寺で開かれた「醍醐の花見」。 それは、日本国はじまって以来の華麗極まる壮大なイベントでした。 豊臣ファミリーと側近武将たち、そして、1300人の秀吉の後宮の女性たちが招待され…

和気清麻呂  平安京建都 約束の場所  

戦前の日本において、楠木正成と共に、二代忠臣と呼ばれたのが和気清麻呂(わけのきよまろ)です。 楠木正成は、南朝を守るために武人として壮絶な最期を遂げましたが、清麻呂は、王朝の万世一系という神勅を命懸けで守った官人でした。 女帝と怪僧 神護景雲…

桂昌院  遠くへ 西陣のお玉は江戸で将軍の母になった

江戸幕府第五代将軍 徳川綱吉 徳川綱吉の母・桂昌院は、ある悩みを抱えていたことで祈祷に通いつめていました。 息子の綱吉に後継ぎができないこと、つまり孫が授からないのは、自身の信仰心が全然足りていないからなのだと苦悩していたのです。 もともと信…

千本釈迦堂 奇跡の建築  高次とおかめ 君に出会えてよかった

そして本堂だけが残った 有名な観光寺院では、本堂、山門、講堂、塔というように、昔からの伽藍群のそのまま全てが揃って残されています。 ですが、京都のお寺には、町のなかに一部分だけが残されているというケースがじつは多いのです。 そして、その残され…