ただひとつだけ遺された将軍の住居
戦国時代以降、城郭造営はいちじるしく発展をとげました。
鉄砲の伝来によって戦争の在り方が大きく変わったこともあり、天下統一を目論む武将たちが、攻防戦によるその効用を重視したからです。
そして、安土桃山時代から、信長、秀吉、家康といった天下の覇者たちによる威風堂々たる居城の造築がはじまりました。
天守閣を中心としたその外観は華麗で壮大に主張され、内部は豪華な座敷飾りや金箔押しの濃彩画で飾られたのです。
信長の安土城に始まり、秀吉の大坂城や伏見城、そして家康の江戸城に名古屋城、これらすべての初期建築は喪失しました。
ですが、慶長8(1603)年、徳川家の京都屋敷として創建された二条城・二の丸御殿だけは、ほぼ完好の形のまま保存されています。
正確に言うと、寛永3(1626)年の後水尾天皇の行幸(来訪)に先だって、一度、二条城は大改修が行われたので、そのときにリニュアルされたものが現在の二の丸御殿の姿といえるのでしょう。
それは、往時の将軍をめぐる生活空間の意匠を、唯一、そのままに伝えてくれる貴重な文化遺産なんですね。
黄金の障壁画
二条城の内部にもみられる書院造の形式は、室町時代の中期あたりから、あの足利義政により取り入れられ、武家の邸宅様式として大成されたものです。
平安時代における寝殿造とは基本的に相違し、生活空間のさまざまな機能を各部屋に分化させた点に、その特色はあります。
特に主室は、床の間をはじめとして、違い棚や付け書院、帳台構を装備した接客空間としての機能を果たしているのです。
二条城内にあっても、もっとも花形とされる主室の大広間は、公式儀礼の対面の場として重要な意味を持ちます。
主の座る場所には、座敷飾りが完備された上段が設けられ、これに続く中・下段、二の間以下にわたって、参会者の序列に対応する諸室が展開しています。
もっとも注目すべきは、黄金を基調とした演出がされている障壁画であり、それは主の威光を象徴させ、居並ぶ人々を視覚的に圧倒する効用を発揮しているのです。

書院造という生活空間の誕生が義政によって時代の脚光を浴び始めたころ、そこにハイレベルの障壁画を描くことのできる技能集団が必要とされました。
そこで義政に抜擢されたのが、狩野正信を祖とする狩野家でした。
そして、正信の息子である元信が「画工の長」と噂になりはじめた頃から、異例の天才画家が率いる天下の名門、狩野一派と京で評判になることになります。
そんな足利将軍家の御用絵師を務めてきた狩野派一派ではあったのですが、時代が混乱期にあったために、難を避けて都を去る将軍家の受注もままならず、八方手を尽くして仕事を探すしかない状況にまで追い込まれていました。
ですので、武家層のみでなく、宮廷から公家、さらに有力寺院から富裕層の町衆にまで対象を広げるしかなかったのです。
でも、それが結果的に、いかなる注文にも対応ができて、レパートリーを多彩に準備することのできるさらにハイレベルな技術集団へと成長をとげることになっていくんですね。
隔世遺伝
狩野派というのは、元信、永徳、探幽(たんゆう)といった具合に、隔世遺伝、つまり突出した才能が孫から孫へと引き継がれています。
そして、江戸初期の二条城・障壁画制作プロジェクトを狩野派が引き受けたときに、リーダーとなったのが探幽なのです。
探幽は、それまでの狩野派の画法を一変させた画家として美術史家たちに評価されています。
新しい感性を持って、これまでの唐様と和様の折衷だけではなく、和風の生活空間に溶け込むようなソフトで軽淡な筆致を融合させたのです。
前述した寛永期に二条城が大改修されたときに、二の丸御殿のメインとなる大広間と、それに隣接する式台の間の障壁画制作を探幽は担当しました。
このとき若干25歳でしたが、すでに才覚をあらわし、派内での主導権も握っていました。
この二条城での制作が探幽にとっての障壁画制作のデビュー作であり、若年期ならではの新しい感性による新機軸を発揮することになるのです。
三の間 北側の障壁画
二の丸御殿を訪れられたときに、是非、注目してご覧になっていただきたいのが、探幽が描いた大広間・三の間の北側の障壁画です。
北側全体を一枚の絵としてみる視線で捉えていただくと、よくわかる仕掛けになっています。
それは、長押下の襖絵や壁貼り絵の画面にとどまらず、長押上の小壁にも共通のモチーフが用いられた構図です。
つまり、巨大な一株の松樹が長押を突き抜け、長押の上下にわたって、まとまった大構図を表現しているのです。
ただ、長押をはみ出す大画面を描きながらも、画面の大枠(壁全体)は意識して、あくまでその大枠内におさめこむ制作態度をとっています。

これは、桃山時代に永徳が描いた画面の天地枠を突き破るような激しい動勢の表現作品と対極にあるものです。
「つきせぬ自由とは、がんじがらめの不自由さのなかにある」という、若き感性むき出しの探幽の主張だったのでしょうか。
この特有の画面枠のなかに、巨大な松樹を二つの幹に分けて構図を支えるかたちで表現した狩野探幽。
巨松を屈折させて、かかる枠内におさえこむこの手法は、ここから幕末まで続いていくのちの江戸・狩野障壁画の基調となっていったのです。