慈悲の人 明恵
京都・栂尾(とがのお)にある世界遺産のひとつ高山寺。鎌倉時代、ここに明恵(みょうえ)という高僧がいました。
一般的にはほとんどその名は知られていないのですが、大学受験には頻繁に出題されるため、高校の教科書などには掲載されています。
どちらかというと、「鎌倉新仏教に対して異を唱えた僧」という好戦的な荒法師のイメージで語られていることが多く、どれもこれも、彼の真の姿が説明されているとは思えない内容になっています。
鎌倉新仏教とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の時代に、比叡山延暦寺から巣立った、法然、親鸞、道元、日蓮といった人物が日本仏教界に変革を起こし、新たな新仏教の開祖となることで生み出された仏教宗派のことをいいます。いわゆる浄土宗や日蓮宗、禅宗などですね。
それに対して、華厳宗の明恵や法相宗の貞慶などの旧南都仏教方が、戒律を尊重して異を唱えたとされているのですが、明恵たちは、ただ単に戦闘的に挑んだわけではなく、宗教上の疑義をうやむやにせず、礼節をもって論争に挑んでいたのです。
そう、明恵とは慈悲の人であり、知恵深く、利他性を重視する高僧であったんですね。
そして、そんな明恵の人柄を象徴するかのような有名なエピソードが高山寺には伝わります。
我が首をはねよ
承久3(1221)年の承久の乱のとき、幕府軍に敗れた天皇方の大勢の落ち武者が、明恵のいる高山寺に逃げ込みました。
すると、北条泰時が率いる幕府兵たちは高山寺に踏み込み、明恵を捕らえて洛中の六波羅探題へ引き立てたのです。
そのとき、明恵は泰時にたいして、「高山寺のある栂尾山は、生きとし生けるものと自然が共生する殺傷禁断の地だ。猟師に追われ逃げ込んだ鳥や獣もここで命をつなぐ。ましてや、傷つき打ちのめされた武士達を私がなんで差し出すというのか。もしそれが治世の妨げとなるのなら、我が首をはねよ」と首を差し出したのです。
この時の明恵の迫力に、泰時は雷に打たれたような感動の衝撃を受けたといいます。
そしてこの時から、泰時にとって明恵は絶対的存在となるのです。
上皇でも天皇でもなく、明恵ただひとりだけに泰時は絶対的尊敬の意を寄せたんですね。
北条泰時
豪華絢爛な伽藍群の寺院を建て生活が豊かになると僧というものは必ず堕落する、という持論を明恵は持っていました。
朝廷から様々な庇護を受けることもできたのですが、貧乏寺でカツカツに生きる道をあえて選んだのです。
現在の高山寺を訪れても、禅宗寺院のような大伽藍はどこにもありません。
あくまでも、霊元的な、山間にある自然と一体化したあるがままの姿がそこにあるのだと感じさせてくれる寺院なのです。
そして、ここにある国宝・石水院は、後鳥羽上皇から、これだけは何としても受け取りなさいと贈られた書院風の建築です。
たびたび、建て替え移転と改造が行われたのですが、床板や柱、梁などに鎌倉期の古材をそのままに利用した部分が残されているのです。
こじんまりとはしているんですが、その瀟洒な洗練された建築は、栂尾山の風流とみごとに一致しているんですね。
人はあるべきやうは
華厳経の中心仏である毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。華厳の教えでは、毘盧遮那仏は一木一草に宿っているといいます。
自然のなかの住む猿やイノシシ、狸などの動物、そこにあるさまざまな樹木などはすべて、毘盧遮那仏の現れなのです。
その思想に最もふさわしい場所、道を求める場所として明恵は栂尾の地を選んだのでしょう。
そして、その明恵の信仰を表現するものとして、高山寺には「明恵上人樹上座禅像」という絵が伝わっています。
これは、明恵が心の塵を払い、毘盧遮那仏あるいは釈迦そのものと一体になろうとしている姿、すっかり自然の中に自分を没入する姿を、全て残すことなく写し出された樹上座禅像なのです。
また、明恵の遺訓として、今に伝えられている最も有名な言葉があります。
それは「人はあるべきやうはといふ、七文字をたもつべき也」と言ったのです。
「あるべきやうは」とは、すなわち「有るべき様は(どんな状態であるべきか)」ということなのですが、これは、つまり、王は王らしく、臣は臣らしく、民は民らしく振る舞いなさい、各人が「あるべきように」振る舞いうことで、「国もあるべきよう」に丸く収まるという意味です。
なぜ「あるべきように」なのかというと、それが最も「自然」だからです。
法然や親鸞の新仏教の系統は「修業」というものを軽視しているように、明恵からしてみれば、そう見えたのかも知れません。
「戒律」「修業」をなによりも重んじる明恵は、「あるべきように」を宗教的観念に置き換えて、各人がその個性に対応した自然な修業方法で悟りを求めることが何よりも必要なんだと、そう伝えたかったのです。
はるか昔から、日本人全体の原理として受け入れられてきた「自然が一番いい」という理念。
それはもう、私たち日本人の心の底に刷り込まれているのではないでしょうか。
日々の生活の中で、「お風呂が沸きました」「お茶がはいりましたよ」と呼びかけたとしても、「お風呂を沸かしました」「お茶をいれましたよ」とは決して言いません。
自分で風呂を沸かし、茶を入れたのに、いかにも自然に出来上がったように語りかけるのです。
「を格」を伴った他動詞というのは、本来、私たち日本人には向いていないのかもしれません。
というか、他動詞、自動詞という区別は、あくまでも主語を重要視する英語圏内の人たちの話であり、述語を主体として、それに補語の名詞をつなぎ合わせていくという日本語の構造には、本当なら、そんな区別さえ必要ないのでしょう。
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✪注) 述語の主体という意味を、すぐ上の文を例にして分かりやすく分解します。
というか、 必要ないのでしょう。
他動詞、自動詞という区別は、 必要ないのでしょう。
英語圏内の人たちの話であり、 必要ないのでしょう。
つなぎ合わせていくという日本語の構造には、 必要ないのでしょう。
本当なら、 必要ないのでしょう。 そんな区別さえ 必要ないのでしょう。
すると、このように、『必要ないのでしょう』 という述語が主体となって、ひとつの文を支配していることが分かるんですね。