京都案内  こうへいブログ  

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清凉寺  生身の釈迦像 それはホンモノと入れかわったのか

大変なものが

清凉寺の所蔵する「釈迦如来立像」に対して、文化庁が国宝指定のための調査を行ったのは、昭和28年7月29日のことでした。

調査員が像の背面を調べようと、まず光背(こうはい)をはずし、その背面に手をあてたとき、ズズッと何かが下へすり落ちようとしたのです。

それは背刳(せぐり)の蓋だったようで、落とさずにすみましたが、そんなところに蓋があるとは調査員も予想さえしてなかったのでしょう。

おそるおそる背刳の蓋をはずし中を覗き込むと、何やら文書のようなものがいっぱいに詰められているではありませんか。

「これは、大変なものが出てきたな・・・」集まっていた有識者たちが俄かにザワツキ始めたために、指定を受けるのが少し遅れることになります。

生身の釈迦像

永観元(983)年、密教を研究するために中国(宋)へ向かった東大寺の僧である奝然(ちょうねん)は、有名なインド伝来の釈迦の生き写しとされる仏像を現地で拝謁しました。

そのとき、この釈迦像こそが私の求めていた精神のよりどころなのだと、奝然は熱く胸を焦がします。

それは施無畏、与願印を結んで立つ、釈迦37歳のときの姿を再現した生身の釈迦と呼ばれる仏像でした。

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そして、この釈迦像の模刻の制作を、奝然は宋の仏師である張延皎(ちょうえんこう)、延襲(えんしゅう)兄弟に依頼したのですが、出来上がったこの釈迦像を彼が日本に持ち帰ったとあと、時を経て、ある噂が京の町に広まることになります。

この釈迦像が、あまりにも釈迦の真容を写しだした尊い仏像であったために、奝然が持ち帰るときに、間違って模刻とホンモノが入れ替わり、ホンモノのほうが日本に持ち帰られたのだと、いつしか信じられるようになったのです。

それはインド、中国、日本の三国に伝来してきた三国伝来の瑞象なのだと信仰され、仏像が祀られている清凉寺に、ひと目そのお姿を拝見しようと、わざわざ全国から民衆が訪れるようになったほどでした。

さらに、平安から室町時代にかけて百体以上の模刻の仏像が制作され、全国に出現することになるのです。

「善光寺如来」や「長谷寺観音」などがそれらの仏像にあたり、中世仏教史上に重要な位置を占しているんですね。

数少ない中国伝来彫刻

現在では、清凉寺の像が三国伝来の像であるとは考えられないのですが、張兄弟が制作したこの選りぬきの中国彫刻は、じつに宋時代の風潮がよく表現された国宝彫刻であることに間違いはないのです。

日本美術のなかで、歴史的にも芸術的にも特に重要とされているものが国宝に指定されます。

その国宝のなかには、伝来された中国の彫刻もほんの僅か、数件ではあるのですが存在します。

数件しかないということは、これらは選りすぐられた中国彫刻であることに間違いはなく、清凉寺のこの釈迦像も、当然ながらそのなかの一つと言えるのです。

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この国にある貴重な中国伝来彫刻の他の例を挙げると、まず養老3(719)年に請来されたとある法隆寺の「観音菩薩像」(九面観音)があります。

そして、弘法大師空海が師である恵果から伝灯の印可として与えられた金剛峯寺の「仏龕」(枕本尊)。

さらに、平安京正門・羅城門楼上にそびえ立っていたという、現在では東寺が所蔵する「兜跋毘沙門天立像」(とばつびしゃもんてん)などがそれにあたるのです。

これらの彫刻の共通点として、中国彫刻にしては珍しく石造彫刻ではない木造彫刻であるということがあげられます。

その材質は白檀や魏氏桜桃(ぎしおうとう)という、いわゆる檀木が使用されていて、石造に比べると格段に精巧で緻密な作品に仕上げられているのです。

清凉寺の釈迦像も魏氏桜桃の寄木造であり、先進中国の伝統工芸的な優れた技術を極限まで発揮したものであるということに変わりはありません。

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同じ京都つながりで、東寺の「兜跋毘沙門天立像」と清凉寺の「釈迦如来立像」を比べてみると、「兜跋毘沙門天立像」のほうは、唐時代作品の象徴といわれる、形式化されずに動的で力感にみなぎり、かつ、おおらかであるという特徴が見られ、「釈迦如来立像」のほうは、静的で熟成された仕上がりになるように重きが置かれているように感じられます。

つまり、清凉寺の像のほうは、唐という宋から見れば前時代の形式から、宋時代の新しい風潮を取り入れた霊像の形式に進化した像だといえるのでしょう。

像内納入物一切

背刳の中から像内納入物が発見されたために、大事を取って国宝調査が後日に先のばされた清凉寺の「釈迦如来立像」。

何事もなければ、像はそのまま同年中に国宝指定されるはずでした。

ですが、たとえ像の国宝指定が遅れたとしても、像内の納入物が見つけられたことは歴史的発見に値するものなのです。

そう、そのことが証明されるかのように、翌々年の昭和30年6月22日、釈迦像と像内納入物は個々のものとして、それぞれ同時に国宝に指定されたのです。

国宝指定の際に付属品や像内納入物がある場合、通常では、その旨の但し書きが添付されているだけなのですが、この像の場合には特に別項で「像内納入物一切」という独立した一項目になっているのです。

つまり、この釈迦像の像内納入品が像そのものと同様に大変重要なものであることを示唆されているということであり、指定が遅れたのも、むしろ致し方無いということなのでしょう。

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仏像の胎内納入品というのは、一般的には像の寄進者、関係者の名簿や経典などが入れられているのですが、この像も例外なくそれらも収められているのは勿論、ほかにも、国宝にされるほどの注目すべきものが多数見いだされています。
たとえば、像内の口内部に仏牙(歯)が埋め込まれ、胴体には絹製などの五臓が納められていました。

これは生身の釈迦像であるということが強く意識された証、つまり、釈迦の真容を写したという所伝に忠実であろうとしたということが確認できるのです。

絹製の五臓は、その一つ一つがどの臓器にあたるのかが理解できるように制作されていて、ひも状に細長く作られた袋は腸であり、円柱を切り落としたような形の綿製のものは心臓、魚のエラのような二個対になっているものがおそらく肺なのだろうというように、臓器それぞれの形に応じて色と形を違えて制作されているのです。

まさに、時代背景を考慮するなら、非常に精巧にできたものであり、中世の宗教人たちの真摯さが伝わってくるようです。

歴史的巨匠

さらに極めつけは、当時の北宋の著名な画家である高文進(こうぶんしん)の画を原画とする「弥勒菩薩像」版画やその他の仏教版画が体内に埋め込まれていたことです。

特に、版画ではあるというものの、高文進の作品は、これまで敦煌あたりで片方たるものが発見されていたぐらいでしたので、この歴史的大画家である人物の、彫りも、刷りの状態も非常に良質な完成品の作品が見つかったということは、大変なことだったんですね。

さらに、ほかにも銅鏡や多数の小銭、絹小片など多種にわたって発見されたことから、絵画、書、金工、織物などの資料、そして同時に、制作年代が確定された宗教史、医学史などの資料として像内納入品は、まさに学会の秘宝とされたのです。

 

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