京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

室町幕府  導かれた場所 室町今出川上る

はじまりの場所

足利政権のはじまりのときに、どこに幕府を開くのか、鎌倉にするべきか、それとも京都にするべきなのかという議論が繰り返し行われました。

新たな幕府にとって政権の所在地をどこにするのかは、極めて重要なテーマだったからです。

そして、国家を不穏な情勢へと導いたある深刻な事件が起きたために、議論の結果選定を待つこともなく、幕府所在地は必然的に京都に固定されることになりました。

後醍醐天皇が大和国吉野に亡命して、南朝政権を発足させたのです。

京都・北朝を守備する必要にせまられた足利尊氏は、新制幕府で対抗することとなり、南北朝の混迷状態がここから長く続いていくことになります。

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のちに、室町幕府と呼ばれることになるこの足利政権は、王朝を抱く京の都に始まったのですが、尊氏たちは、やはり馴染みのある東国の要、鎌倉の地に思いをはせていたのでしょう。

このような事態にならなければ、足利一族は、できるならば鎌倉に幕府を開きたかったに違いありません。

事実、尊氏は和歌の世界では、「鎌倉大納言」と名乗っていたのです。

尊氏だけではありません、後継ぎで息子の2代目・義詮も、観応元(1350)年6月頃から、鎌倉に住んでもいないのに「鎌倉殿」と自分自身を名乗り始めているのです。

結局のところ、南北朝期の政治事情によって幕府の所在地が京都に選定されたといっても、決して言い過ぎではないんですね。

避けられない対立

室町幕府の本質とは、将軍の命令を守護(大名・国会議員)が執行するという、守護制度を基軸とした統治体制だったといわれています。(* ちなみに、現在の知事に相当するのが守護代です。)

将軍と守護は相互に補完し合う関係であり、一方で、潜在的に対立を避けられない間柄でもあったわけです。

地方の統治をおこなう守護は、将軍にとって必要不可欠な存在であり、問題を起こした守護を粛清したとしても、必ず、別人の新たな守護を任命しなければなりませんでした。

そして、守護たちが反乱を起こさぬように、歴代将軍たちは、守護から相対的に自立した国人(市町村長)たちによる直轄軍を編成して、警護にあたらせ対応しました。

将軍にとってもっとも警戒すべきは、守護分国の獲得に成功して力を持ちすぎた有力守護たちだったからです。

また、その有力守護たち同士による紛争も、年々、増加傾向にありました。

そして、その紛争に勝ち残った領土拡大と世襲に成功した武家たちによる三官四職(さんかんししき)という将軍を支える体制が確立します。

選ばれしものたち

「三官四職」というのは、管領(かんれい)を務めた三家と侍所頭人(さむらいどころ とうにん)を務めた四家のことをいいます。

管領は将軍の補佐役であり、将軍と守護の間に入り、執行の調整役をおこなうという、いわばナンバー2の存在です。

また、武家の生命線ともいえる土地問題の訴訟の決定権も管轄するという、かなり大きな権限を持っていました。

管領の地位と権限が確立したのは三代将軍・義満の頃で、細川、斯波、畠山の三つの守護家から一人、管領が選ばれたんですね。

いわばローテーション制、といったところでしょうか。細川、斯波、細川、畠山というように3~10年の任期で交代したのです。

その将軍・義満のときに、政庁を兼ねた将軍邸が「室町今出川上る(あがる)」という京都市内の幹線道路である室町通りと今出川通りの交差点北側の場所にあったので、ここから室町幕府と称されるようになります。

花の御所と呼ばれたこの豪邸は、足利政権のなかでもっとも栄華を極めた将軍と名高い義満にふさわしいものでした。

太政大臣にまで登り詰め、諸外国には日本国王と呼ばれた怪物将軍が義満その人です。

山名氏、大内氏など、抵抗勢力の有力守護は、このとき、義満によって徹底的に叩かれていた為に、守護のなかで義満に逆らえるものはもう誰ひとりいなかったのです。

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それから、もう一つの侍所という機関は、鎌倉幕府のころから存在した御家人の統制をおこなう京都の市政機関といったところでしょうか。

こちらは、赤松、一色、山名、京極といった面々です。この四つの守護家が頭人に就任し、四家と並び称されました。

まさに、この「三官四職」が室町幕府、将軍を支えてきました。彼たちは、ときに足利将軍家を敬い、そしてまた、この将軍家を憎んだのです。

真の平和

恐怖の魔王と呼ばれた六代将軍・足利義教(よしのり)。

京都・本法寺の日親という高僧を拷問にかけ、赤く焼けた鉄鍋を頭にかぶせるという残虐な仕打ちを命令した激昂将軍です。

逆らう守護にも容赦なく、若狭丹後守護・一色義貫を殺害、加賀守護・富樫教家を永久追放にしています。

そして、今度は俺の番に違いないと、精神的に追い詰められていた播磨守護・赤松満祐によって義教は暗殺されてしまうのです。

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まわりを震え上がらせる恐怖政治を実行していた義教は、暗殺されるまで、結果としての日本の秩序と平和の安定を達成していました。

現実に、義教に対抗できる守護大名が存在しないということは、争いがなくなるということ、戦争が起きないので、真の平和が訪れるということです。

それは、皆に愛される人の好い将軍では、決して成し遂げることは出来ないのです。

なぜなら、為政者を甘く見て、必ずなめた態度をとってくる守護が多数でてくるからです。

義教は絶対的権力を確立させるために、守護大名を徹底的に命令通りに服従させました。

そのため、三官四職の相続問題にもどんどん介入し、自分の息のかかった人物を相続人に指名しているのです。

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義教がいなくなってしまったために、室町幕府の統制機能は崩壊し、結局、無秩序状態に戻りました。

義教の息子があの銀閣寺で知られる義政なのですが、もうすぐその先に、京都を破壊しつくした応仁の乱の火種がくすぶっています。

そうなのです、間もなく世の中は、戦国時代に突入しようとしているのです。

日の本を、この先いつまでも続くカオスの時代、戦国時代という地獄に突入させた本当の人物を一人あげるとしたら誰でしょうか。

それは、応仁の乱の首謀者である山名宗全でも細川勝元でもなく、恐怖の魔王・義教を暗殺した赤松満祐なのだといえるかもしれません。