京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

醍醐の花見  京極竜子の生涯 圧倒的なその美貌

桜舞い散るその下で

慶長3(1598)年、豊臣秀吉によって名刹・醍醐寺で開かれた「醍醐の花見」。

それは、日本国はじまって以来の華麗極まる壮大なイベントでした。

豊臣ファミリーと側近武将たち、そして、1300人の秀吉の後宮の女性たちが招待されています。

この花見によって、京都の呉服商たちは空前絶後の大きな利益を得ることになりました。

そう、1300人の女性すべてが、この1日で2度の衣装替えを行ったからです。

側室やそれに近い身内関係の女性たちの着物となると、現在の価格で、1着につき数百万単価になったはずです。

それが、2着分衣装替え出来るように用意されたということです。

つまり、新しく3着仕立てられたものが1300人分も準備されていたんですね。

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舞い落ちる桜の下で宴会が始まると、まず正室の北政所・ねねが秀吉から杯を受けました。

そして当然のように、「つぎに杯を受けるのはワタシよ」と、側室の淀君(茶々)が前に出ます。

そう、豊臣家の後継ぎである秀頼をこの世に生んだのは、ほかの誰でもない茶々、その人なのですから。

ですが、「ちょっと、待ったりや」と、同じく側室のひとりである京極竜子(たつこ)がこれを制します。

圧倒的な美貌を誇り、誰もが羨望の眼差しで見つめる、松の丸殿と呼ばれる京極竜子。

思い通りにはさせない。その凛とした態度で、決して茶々に杯を受けさせはしませんでした。

二人は決して互いに譲歩することなく、それぞれ配下の側室たちを巻き込んでの大騒動になっていくのです。

そう、茶々のやること成すことすべてが竜子は気に入らない。

ねねの次に茶々が杯を受けるというその順番は、いわば、誰もが承知の自然の流れなのですが、当然のように、勝ち誇ったように振る舞う茶々のその態度が許せないのです。

近江の名家 佐々木京極氏

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古く鎌倉時代から湖北六群を支配してきた京極家。竜子はその近江の名家の出身です。

戦国の世になってからは、のし上がってきた浅井家にとって代われましたが、もともと京極家は浅井家の主筋にあたります。

浅井三姉妹の長女である淀君よりも、上の格の名家出身であることを自負していた竜子には何かと我慢できないことが多かったのです。

竜子の母(京極マリア)は浅井家の出身であり、竜子の弟である京極高次に嫁いできたのが、浅井三姉妹・次女である初です。

つまり、浅井家の女性は代々、名家・京極家に嫁いできたのです。

そして、秀吉がどれだけ竜子に入れ込んでいたのかが分かる、あるエピソードが今に伝わっています。

竜子にかなり惚れ込んでいた秀吉は、竜子が目を患ったときに、すぐさま有馬温泉で治療できるように手配しています。

何十人もの付き添いを同行させていても心配でたまらず、大坂から「体調はどうだい。つらくないかい」と、何度も竜子に手紙を送っているんですね。

さらに、秀吉がどれほど竜子を大切に思っていたのかが、よく分かる、戦乱の世にあって信じられないようなエピソードがあります。

本能寺の変のあと、明智光秀の誘いに応じて阿閉一族(あつじ)と組んだ京極高次は、秀吉の母やねねが住む長浜城を襲撃していました。

ですが、山崎の合戦で光秀をあっさりと片づけた秀吉は、すぐさま近江に入りこれを阻止し、阿閉一族を皆殺しにしました。

高次はどうしたのかというと、命辛々、柴田勝家を頼って北陸へと辿り着いたのです。

弟である高次の助命を竜子は泣きながら秀吉に嘆願しました。

「高次は気の弱きやつなので、阿閉にいいように使われたのだろう、うんうん」と、秀吉は高次を責めることなく許したのでした。

そして、しばらくすると秀吉は高次を大津六万石にまで取り立てたのです。

拳を固めろ 叩きのめされても

華麗極まる醍醐の花見が終わったすぐ後に秀吉はこの世を去りました。竜子は髪を下ろし、しばらくして高次のいる大津城に移っています。

そして、日の本ではすぐさま関ケ原の戦いが始まろうとしています。

はとんどの大名がそうであったように、高次も苦悩しながらも立場を明確にしなければなりません。

気がつけば、「大坂あたりにおいては、ただひとり東軍の高次」といわれるほど、滋賀県大津という場所で、徳川側についた高次は孤軍奮闘していました。

ですが、西軍一万五千の猛攻撃を受け、大津城は大筒の弾丸を浴びるように喰らい続けます。

大津城に住む竜子も衝撃で吹き飛ばされ、叩きのめされ卒倒しながらも、その拳は強く握りしめられていたのです。

どんな不幸に襲われれようとも、どんな理不尽な目に遭い続けても、私は決してひるんだりはしない。そう、竜子は立ち上がります。

 

やがて、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は高次と竜子の手を取り、「全ては、大軍を大津で引きつけてくれたそなたたちのおかけじゃ」と褒めたたえました。

一方で、茶々とその息子である豊臣秀頼にとっては、ここから15年間という長い間続く、つらく屈辱の日々のはじまりだったのです。

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そしてついに、元和元(1615)年5月、紅蓮の炎に包まれた大坂城は茶々と秀頼を抱いて落城しました。

秀頼の大切な愛する長子、つまり茶々の孫にあたる国松はこのとき8歳でした。

乳母が国松を抱えながら、燃えさかる炎をくぐり抜け城を脱出して、遠く伏見の商家に逃げ込みましたが、あえなく見つけだされ処刑されてしまうことになります。

このとき京都にいた竜子が、なんとか阻止しようと処刑場に走って駆けつけたのですが、間に合いませんでした。

この哀れな少年の亡骸を号泣しながら抱きしめる竜子。

京の誓願寺に国松を手厚く葬った竜子の胸のなかには、こみ上げるものが溢れていました。

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そして、思い出されるのは、桜舞い散る花見の席で、茶々と張り合った若き日の自分と皆の顔。何もかもが輝いていた、あの春の日。

彼女がこの世を去るのは、国松の処刑から、さらに19年後のことです。寛永11(1634)年、誇り高く情に厚い絶世の美女は、その生涯を閉じたのです。