こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

世界文化遺産

金閣寺  取りもどされた その輝き 目もくらむ光

風雨にさらされた黄金 戦前の旧国宝・重要美術品の再指定が行われたのは昭和25年のことでした。 いわゆる文化保護法が施行されて、それまでに指定されていた真偽が見直され、大幅に件数が減らされることになります。 そんな状況下でも、当然のごとく金閣は…

東寺  そこにあるのはパラレルワールドだった

政教分離 794年に、国家権力の中枢として人為的につくり出された平安京。それは、政治的な意味を強く帯びた新政都市でした。 このとき同じタイミングで平安京に創建された東寺・西寺も、国家鎮護の目的だけで建てられたわけではなく、唯一この国で、公式…

二条城  平安京から生まれた京都市という都市の本質

公武和合の舞台 大坂夏の陣、冬の陣が始まる少し前の1603年頃に、幕府本営・二条城は完成しました。 徳川家が上洛する際の宿所として造営されたこの城郭から、家康は戦場へと出陣しているんですね。 その後、1626年に三代将軍・家光が後水尾天皇を迎…

高山寺 「鳥獣人物戯画」 失われたエピローグ

謎多き国宝絵画 世界遺産・高山寺が所有する国宝絵巻「鳥獣人物戯画」。 漫画の元祖と名高いこの国宝戯画は、甲・乙・丙・丁という筆様の異なる4巻の絵巻で構成されています。 擬人化されたウサギやサル、カエルなどが自然の森の中で戯れるさまを描いた甲巻…

元離宮二条城 この国に遺された最後の御殿 その障壁画とは 

唯一 遺された二の丸御殿 権力の転換、その確認を明示するかのように、都に、突如出現した葵の城、二条城。 慶長8(1603)年、すでに解体されていた豊臣秀吉の聚楽第に対抗するかのように建てられたこの城は、まさに、京都における徳川家の拠点のひとつ…

宇治平等院で命尽きた源頼政  「遅くはないさ、はじめればいい」という口ぐせ

その大義名分 治承4(1180)年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に対し、平家追討の令旨(りょうじ)を出しました。 令旨とは、皇太子や親王の命令を記したものですが、上皇の命令である院宣(いんぜん)や、天皇の命令である勅…

空海の足跡  高野山から東寺へ そんな遠くに行かんかて

絶賛された目録 唐から帰国していた空海が、やっとのことで、なんとか都にある高雄山寺(神護寺)に入れたのは、大同4(809)年のときでした。 空海は、国から20年の留学を命じられていたのにもかかわらず全く聞き入れないで、わずか2年で唐から帰国…

東寺  言葉だけではたどりつけない世界 立体曼荼羅

ただ一度だけの炎上 延暦13(794)年、桓武天皇は京都遷都にともない、羅城門を挟んで二つの寺、東寺と西寺の建設を命じました。 平安京を守護するための官寺として建立されたのですが、外国からの来賓客の宿泊に主に使用されていました。 そして東寺の…

高山寺 明恵  あるべきように 自然のままに

慈悲の人 明恵 京都・栂尾(とがのお)にある世界遺産のひとつ高山寺。鎌倉時代、ここに明恵(みょうえ)という高僧がいました。 一般的にはほとんどその名は知られていないのですが、大学受験には頻繁に出題されるため、高校の教科書などには掲載されていま…

二条城障壁画  御用絵師 狩野家

ただひとつだけ遺された将軍の住居 戦国時代以降、城郭造営はいちじるしく発展をとげました。 鉄砲の伝来によって戦争の在り方が大きく変わったこともあり、天下統一を目論む武将たちが、攻防戦によるその効用を重視したからです。 そして、安土桃山時代から…

龍安寺  謎につつまれた石庭 義政と庭師たちの有縁 

研ぎ澄まされた静寂の空間 嵯峨野から金閣寺へと続く、きぬかけの路(みち)。 その霊気がただよう路から視線を上げると、すぐそこに、衣笠山(きぬがさやま)から朱山(しゅざん)が連なっているのが見えます。 この山々のふもと一帯は、平安時代末ごろの天…

飛雲閣 秀吉の足跡  それは聚楽第・伏見城の遺構なのか

西本願寺の境内にそびえる国宝・飛雲閣は、金閣寺、銀閣寺とともに京都三名閣と呼ばれています。 豊臣秀吉が造営した聚楽第の遺構なのだと、以前はそう伝えられていました。 じつは、はっきりとした確証がいまだ得られていないために、真か偽なのか論証は続…

銀沙灘と向月台  月に照らされた 青の世界

ユートピア 文明14(1482)年、応仁の乱が終わり、世の中が少し落ち着きはじめると、前将軍・足利義政は、頓挫していた山荘邸宅の造営に再び執りかかりました。 すなわち、現在「銀閣寺」と呼ばれている寺のことですが、もともとは、義政の終の棲家と…

徳川家光によって再興され現在の姿になった観光寺院が京都ではなぜ多いのか

福運の姫君 徳川二代将軍・秀忠の五女である和子が後水尾天皇に入内したことで、度々起こっていた公武関係の危機は、次第に回避されていくようになりました。 まさに、朝廷と幕府の平和への架け橋となった和子は、京都文化の復興にも大きな足跡をのこしてい…

仁和寺  仁清と乾山 宮廷文化が生んだ きれいさび 

御池と御室 代々天皇の皇子および皇孫が門跡という住職を務められた世界文化遺産・仁和寺。 神泉苑のある場所が御池と呼ばれるように、この古刹がある地域も御室と呼ばれてきたのです。 寺であると同時に、宮殿であるという性格を持つこの門跡は、全国の寺社…

平等院  鳳凰堂  龍神に守られた平安時代の象徴

建物から飛び出している尾廊 宇治川のほとりから朝日が昇るとき、その眩い光が池の水面に当たり、反射してお堂の中を照らしています。 さざなみのようにキラキラ揺れる光を受けた仏像は、まるで胸のあたりで呼吸しているかのよう。 生み出された自然の光によ…

金閣寺  義満の黄金趣味の極み 水面に映る 曇りの日

舟を浮かべて盛大な宴 金閣といえば派手で強烈な光を放っているイメージがありますが、実際に境内へ足を踏み入れて眺めてみると、優しく気品ある光に包まれています。 また、季節や天候によって様々な美しい姿を魅せてくれるのですが、晴れた日よりも少し曇…

清水寺  王城の守護神 田村麻呂 信じる言葉はあるか

征夷大将軍・坂上田村麻呂 清水寺が国から公認されたのは、805年のことです。 できたばかりの平安京では、寺院の新設・奈良からの移転は禁じられていましたので、国家公認の東寺・西寺以外の寺院は存在していませんでした。 清水寺だけが例外的に、特別に…

二条城  なんで都にお城が建ってんのやろ  

なぜ元離宮と呼ばれるのか 明治元(1868)年2月3日、二条城に明治天皇が行幸されて、徳川幕府討伐の詔(みことのり)を発せられました。 薩長を中心とした討幕軍は、ここから江戸に進発します。 そう、遡ること260年前に、徳川家康が京での幕府の拠…

上賀茂神社  神奈備信仰の社  岩倉具視が復活させた葵祭

古代日本人の優れた色彩感覚 賀茂川上流にある御園橋(みそのばし)を渡ると、奥のほうに、上賀茂神社がしずまっているのが見えてきます。 丹塗りの鳥居と殿舎が、まるで王朝時代が再現されているように、青い杉の木立のなかに立ち並んでいるのです。 神社建…

東寺  街中にそびえる五重塔 1200年前からこの場所に

1200年前から変わっていない東寺の所在地 真言宗総本山、東寺(教王護国寺)は794年の平安遷都にともなって建立された密教寺院です。823年に弘法大師・空海が嵯峨天皇より賜りました。 平安時代の雰囲気を今でも色濃く残していて、空海にまつわる…

下鴨神社    水の神がいる裁判発祥の地 糺の森

賀茂社を司っていたのは賀茂氏です 上下の両賀茂神社は、伊勢神宮と並んで皇室からもっとも崇敬されてきました。 賀茂社の神に対する崇敬が特に厚くなったのは、桓武天皇の794年平安遷都からです。 賀茂社を司っていたのは、京都の東北に居を構える賀茂氏…

西芳寺(苔寺)  夢窓国師が中興した 奇跡の庭  

緑艶やかな色彩の苔 苔寺と通称をもつ西芳寺は、京都の西山エリアにあります。 平安時代の終焉ごろに浄土信仰の寺として建立され、その後、時代の流れで衰退していたのを、1339年に禅僧の夢窓国師(むそうこくし)が中興しました。 夢窓国師は芸術的な才…

醍醐寺  京都でいちばん古い五重塔 幻想的な宗教建築物

千年前に建てられた醍醐寺の五重塔 京都で有名な塔といえば、やはり東寺の五重塔ですが、京都でいちばん歴史ある古い塔は醍醐寺の五重塔です。 東寺の塔は4回も火災に遭い、現在の塔は江戸初期の1644年に建てられたものです。それに対して醍醐寺の塔は…

高山寺 国宝 鳥獣人物戯画  なぜこの寺に伝わったのか 

石水院「鳥獣人物戯画」 人里離れた静かな森林にたたずむ、世界遺産のひとつ高山寺。 寺には石水院という国宝がありますが、これは明恵(みょうえ)という高僧の住房だった建物です。 1218年、後鳥羽上皇から学問所として贈られたものを明恵が高山寺に移…

平等院   鳳凰堂 それは飛ぶ鳥の形をした建物

鳥の姿を池の水に映す極楽浄土 その建物は、南北翼廊を左右の翼になぞらえ、真ん中の阿弥陀堂をまさに鳥の顔に見立てています。 よく見ると阿弥陀様の目は鳥の目であり、その上には鳥の鶏冠のようなものが乗っていて、尾廊は長く池を横切って裏山に通じてい…

天龍寺   大方丈から曹源池の向こうに見る登竜門

後醍醐天皇の鎮魂のために造られた寺 天龍寺は暦応2(1339)年に、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために高僧、夢窓疎石を開山として建立されました。 尊氏によって吉野に追いやられた後醍醐天皇は、右手に剣を持ち、左手に法華経を持って、臨終の苦…

銀閣寺  義政が遺した東山文化の象徴

義政の治世の結果は焦土だった 室町幕府八代将軍・足利義政は、弟の義視をあと継ぎに定めておくことで、機会がくれば自分はもういつでも隠棲できるようにと、密かに準備を進めていました。 将軍職というものにつくづく嫌気がさしていたので、義視が住職をし…