京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

現代日本語の構造  テキスト全体の中から最も重要なセンテンスを選びだす方法

統一的な把握の方法 日本語における「複文」についての捉え方として、その考察が非常に有益であると評価されている二人の文法学者がいます。 一人は、前回紹介しました「象は鼻が長い」の著者である三上章さん。 そしてもう一人が、「文はどのような過程を経…

象は鼻が長い 三上文法  文という枠を越える言葉

主語廃止論 日本語の基本的な関係は「主語―述語」ではなく、「主題―解説」であるという考え方。 それは、日本の文法研究の発展に伴い、多くの学者たちに支持されるようになりました。 その理論を広く世に知らしめた存在が、高校の数学教師から国語学会へと転…

日本語の文法を考える  「桜の花は咲いている」「それがどうしたの」

現代日本語の研究の中で、これまで最も精力的に行われてきた論争とはいったい何か。 それには、「ガ」と「ハ」という二つの助詞を、どのように使い分ければいいのか、というテーマがあげられるといいます。 というのも、この「ガ」と「ハ」の使い分けは、日…

悪文  伝わる文章の作法 「人の世を作ったものは・・」  

前回に続き、文章表現の上達を目指して読み漁った本の中から、非常に有益だったと感じた一冊をご紹介します。 【「悪文」 岩崎悦太郎 編著】 伝わる文章の作法をテーマに、8人の著者の執筆による個々別々の章で編成された異色の文章読本です。 悪文 伝わる…

日本語の作文技術  よく柿食う客がとなりの客だ

ちょうど3年くらい前にブログを始めたのですが、出来上がったものを読んで愕然としたのを覚えています。 タドタドしいといいますか、言葉足らずといいますか、とにかく読めたもんじゃなかったのです。 今もたいして進歩していないのですが、なんとなく助詞…

時代の覇者となった平清盛 武士が表舞台に登場した背景

六波羅 俳優の仲代達矢が大河ドラマで平清盛を演じることが決まったとき、訪れたのは、京都・松原にある名刹・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)でした。 役作りのために、境内に安置されている清盛の木像を仲代は一身に見つめていたのです。 平安時代後期、この…

伊藤若冲  京で描き続けた生涯 あきらめはしない

真物 享保元(1716)年、伊藤若冲は京都の錦小路で生まれました。 現在は、錦市場という名称で多くの観光客を招く賑やかな商店街ですが、もともとは魚や野菜の市場として毎朝雑踏をきわめた場所でした。 そこにあった青物問屋「桝谷」に長男として若冲は…

応天門の変  不可解な謎に満ちた難事件

平安京のシンボルといわれた朝堂院。平安宮の中心となる建物でしたが、その正門があの応天門です。 ここで起きた応天門の変は、日本史上有数の不可解な謎に満ちた政治的疑獄事件と言われています。 また、明治28年に平安遷都1100年を記念して建立され…

相国寺  天を支配しようとした将軍 足利義満

カオス 足利尊氏によって室町幕府は開設されましたが、二代目の義詮(よしあきら)の段階までは、足利家が全国を統一したとはとても言えない状況でした。 そう、国家の最高権威である朝廷が北朝と南朝に真っ二つに分かれているという事態はまだ克服されてい…

伏見  旅籠・寺田屋事件 幕末最大の惨劇

なぜ薩摩と長州だったのか 関ケ原の戦い以来、260年も続いた徳川幕府が倒されてしまった最大の理由とはいったい何だったのでしょうか。 それは、もともと仮想敵国である薩摩や長州の「自由に京に入り」「自由に公家と交際する」という権利を幕府が黙認し…

木曽義仲と巴御前  その女傑 まことに美麗なり

木曽谷に逃れて 平家総帥・清盛が倒れた後、京都から平家一族を追い落したのは源頼朝ではなく、信州・木曽の山中で挙兵した木曽義仲でした。 義仲の本姓はもちろん「源」であり、木曽の住人である「源義仲」というのが正式な名前なのです。 義仲と頼朝は互い…

4年目の秋

1976年に「路地裏の少年」でソロシンガーとしてデビューした浜田省吾。 デビュー当時から和製ボブ・デュランと高い評価を受けていた彼ですが、あくまでもライブによる活動を大切にし、生身のステージによる表現にこだわり続けました。 その頑なな生き様…

激動の時代  新田義貞と勾当内侍 ふたりが過ごした日々

なんのための鎌倉殿ぞ 正慶2(1333)年5月、後醍醐天皇の勅命による攻撃によって鎌倉幕府は崩壊し、北条氏は滅亡しました。 最後は、足利尊氏、新田義貞といった幕府側の屋台骨ともいえる有力御家人の裏切りによって、その息の根を止められたのです。 …

徳川幕府と宗教都市・京都 家光によって完成された都の景観

本山と末寺 何千という寺院が密集する、世界的にも珍しい宗教都市である京都。 その京都に立ち並ぶ寺院の注目すべき特色、他とは違う点とはいったいなんなのでしょう。 それは、全国の子寺を統一する寺院、つまり「本山」寺院が多く存在するということがあげ…

大通寺  西八条禅尼 源実朝と過ごした日々

京から鎌倉へ 享年28という若さでこの世を去ってしまった源 実朝(さねとも)。 その鎌倉幕府・第三代将軍のわずかな生涯に、より添うように生きた一人の女性がいました。 彼女の幼名は千世(ちよ)といい、出家後には、「西八条禅尼」(にしはちじょう ぜ…

高山寺 「鳥獣人物戯画」 失われたエピローグ

謎多き国宝絵画 世界遺産・高山寺が所有する国宝絵巻「鳥獣人物戯画」。 漫画の元祖と名高いこの国宝戯画は、甲・乙・丙・丁という筆様の異なる4巻の絵巻で構成されています。 擬人化されたウサギやサル、カエルなどが自然の森の中で戯れるさまを描いた甲巻…

元離宮二条城 この国に遺された最後の御殿 その障壁画とは 

唯一 遺された二の丸御殿 権力の転換、その確認を明示するかのように、都に、突如出現した葵の城、二条城。 慶長8(1603)年、すでに解体されていた豊臣秀吉の聚楽第に対抗するかのように建てられたこの城は、まさに、京都における徳川家の拠点のひとつ…

聚光院の障壁画  狩野一族を画壇の覇者に仕立てあげた天才絵師 永徳

武将たちの栄華 室町幕府を事実上崩壊させ、一時、天下の支配者として君臨した戦国大名、三好長慶(ながよし)。 長慶が病死すると、その権力の全てを部下の松永弾正が奪うのですが、その弾正もあっけなく織田信長に敗死させられました。 その三好長慶の栄華…

禅の言葉 人間、その無限に向上するもの  政治と宗教

政治と宗教のつながり 禅宗という思想を本格的に日本に伝えたのは、建仁寺を開いた栄西(えいさい)でした。 「禅」そのものは、最澄を祖とする比叡山・延暦寺で四宗兼学(円・戒・禅・密)のひとつとして、すでに平安時代には伝えられていたのだそうです。 …

応仁の乱  失われた平安京

空位となった将軍職 応仁元(1467)年から11年間にわたって続いた「応仁の乱」によって、中世の京都は完膚なきまでに焼き尽くされ、焦土と化しました。 応仁の乱は、足利将軍家や有力大名たちの家督争いからはじまり、やがて全国規模の軍事的な衝突へ…

宇治平等院で命尽きた源頼政  「遅くはないさ、はじめればいい」という口ぐせ

その大義名分 治承4(1180)年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に対し、平家追討の令旨(りょうじ)を出しました。 令旨とは、皇太子や親王の命令を記したものですが、上皇の命令である院宣(いんぜん)や、天皇の命令である勅…

本法寺  なべかむり日親と「魔王」足利義教

恐怖の魔王 ときの有力大名たちを統制するために、将軍家の絶対的権力を確立するために「魔王」となった足利義教(よしのり)。室町幕府、第六代将軍です。 義教が将軍に指名される少し前に、日本で最初の土一揆は起こります。 さらに、関東公方の反乱、南朝…

法勝寺  巨大で奇抜 八角九重塔はなぜ建てられたのか ②

時の流れ 治暦4(1068)年、藤原摂関家と外戚関係を持たない後三条天皇が帝位についたのは35歳のときでした。 「えも知れぬ重圧を感じるのは、関白摂政が天皇の外祖父であるからのことで、私とは全く無縁のことだ」と、この時、後三条帝は周りに豪語…

法勝寺  巨大で奇抜 八角九重塔はなぜ建てられたのか ①

院政 平安時代、白河上皇に「天下の三不如意(ふによい)」という有名なエピソードがあります。 賀茂川の氾濫、双六の目、延暦寺の僧兵、この三つだけは自分の意のままに、思い通りには、どうしてもすることが出来ないと上皇が嘆いたという話です。 ですがこ…

空海の足跡  高野山から東寺へ そんな遠くに行かんかて

絶賛された目録 唐から帰国していた空海が、やっとのことで、なんとか都にある高雄山寺(神護寺)に入れたのは、大同4(809)年のときでした。 空海は、国から20年の留学を命じられていたのにもかかわらず全く聞き入れないで、わずか2年で唐から帰国…

伝教大師と弘法大師  「育てる人」最澄の密教への心残り

後世への影響力 偉大な功績を讃えられたことで、伝教大師という諡号を与えられた最澄。そして、その永遠のライバルであった弘法大師・空海。 最澄は日本天台宗の祖であり、空海は真言密教をこの国にもたらしました。 この天才宗教家ふたりの根本的な違いとは…

北大路魯山人  美食俱楽部による至高のメニュー そしてパブロ・ピカソとの出会い

美食倶楽部 陶芸、篆刻、書画とマルチにその才能を発揮させた北大路魯山人(ろさんじん)。 美食家という称号をこの国で初めて獲得したのも、他ならぬ彼だったのではないでしょうか。 大正10年、魯山人は38歳のときに、経営していた美術店の2階に会員制…

六孫王神社  臣籍降下と源氏のルーツ 

なぜに臣籍降下は始まったのか 私たちは「源氏」というと、源頼朝・義経など、「武士の源氏」を強くイメージします。 実は「源」という姓は、皇族、つまり天皇一族が「臣籍降下」(しんせきこうか)する際に与えられた姓であり、それは嵯峨天皇のときに始ま…

平安京の誕生  それは革命のとき 長岡京をあとにして

山の背後へ 延暦3(784)年、桓武天皇は平城京を棄てさり、長岡京への遷都を行いました。 ですがその長岡京も僅か10年という短命に終わり、さらに平安京へと遷ることになります。 平安京は現在の京都市内であり、長岡京は現在の京都府の向日市・長岡京…

神護寺  国宝 源頼朝 平重盛の肖像画はなぜこの寺に残されたのか

木々に囲まれた山域に清滝川が流れる、京都市の西北部にある高雄山(たかおさん)。 その渓谷から、乱れ積みの長い階段を登り切ったところに建つのが古刹・神護寺です。 平安京が出現する少し前の天応元(781)年に、高雄山寺として創立された古い歴史を…