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大徳寺  千利休と山門事件 隠された真実

千利休自刃の原因とされている山門事件、それは大徳寺で起こりました。

山門事件とは、利休をモデルにした木像が大徳寺の山門上に安置されたことで、豊臣秀吉の怒りをかってしまった事件のことです。

ですが、さまざまな歴史検証が行われてくると、どうやら、この事件は捏造されたのではないか、こじつけられたのではないか、という説が有力になってきたんですね。

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自由都市 堺

戦国時代、利休の出身地である堺という都市は、鉄砲製造と海外貿易の拠点として、どの大名にも属さない自由都市でした。

中国、フィリピン、ジャワ、スマトラと交易が盛んで、時代の最先端の技術と情報があふれる当時の日本で最も魅力的な街だったんですね。

その堺で製造販売される鉄砲という最新兵器は、この頃、凄まじい需要がありました。

なにしろ世は戦国時代なのです。下剋上が嵐のように吹き荒れているのですから、大名たちが自衛のために血眼になって入手しようとするのは、自然の理といえたのでしょう。

この需要によって膨大な利益を手にして力を蓄えた堺の商人たちは経済界の中心的存在となっていきました。

利休という人物を捉えるとき、彼がこの街をルーツとした存在であり、この堺衆の一人であったということをどこかで意識しておかなければなりません。

栄枯盛衰

この時代、中国からもたらされた茶の湯が禅寺に始まり、大名や公家たちによって一大ブームとなりましたが、奈良の村田珠光によって堺の街にも広まり、富豪の商人たちも次々に茶人となっていくのでした。

なにしろ、金にものを言わせて次々と高価な茶道具を彼らが購入していくのですから、当然、茶の世界というのは堺を中心として発展していくことになるんですね。

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自由都市を謳歌し、華美な世界へと変貌を遂げていく堺は、やはり、権力者からその利権を狙われることになります。

堺を支配する富裕層たちのチカラをそぐために、織田信長はその資金力と情報力を分散させようと計らいました。

堺衆の中心人物であった千利休、津田宗及、今井宗久という三人の茶人を、信長は茶頭として安土へ連れ帰ってしまったのです。

さらに、矢銭といわれる多額の税金を堺の人々に負担させるなど、真綿で首を締めるようにジワジワと圧力を加え続けるのでした。

次に政権を引き継いだ豊臣秀吉の時代にもその行為は続き、ついに、堺の豪商たちは大坂に強制移住させられることになります。

これによって経済の本拠地は大坂へと変わっていき、鉄砲製造の専売権も剥奪されてしまうんですね。

欲望にまみれた権力者たちのこれらの理不尽な行為を利休はどんな思いで受け止めていたのでしょうか。

表向きには感情を出さないものの、マグマのように溜まった利休の憤りが、この後、ある形で秀吉にぶつけられることになります。

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侘びという美学

利休が一大事とした「侘び」という概念。これが分からないと、真に利休のことを理解できないといいます。

たとえば、一期一会という世界があります。それは、瞬間と瞬間、命と命の触れ合いが最も昇華されるとき。

その世界では、余分なものが一切取り去られ、より簡素化、単純化して、自然を演出することが必要とされます。

そこには、「亭主」と「客」の対等の意識が静かに流れているのです。

それは自然につつまれた場所、極限まで簡素にされた茶室に花が一輪いけてある、利休が心惹かれるのはそんな美しさなのです。

精神と礼をなによりも大切にする利休。贅の限りを貪る秀吉に、ことあるごとに、その姿勢をぶつけていくんですね。

自慢の黄金の茶室も、おそらく、利休は心のなかで失笑し、小馬鹿にしているのだろう。そんな風に秀吉は、次第に利休を疎ましく感じはじめるのでした。

三成の謀略

秀吉の側近であった石田三成は、豊臣家を脅かすもっとも危険な人物として、徳川家康を常に警戒していました。

どうにかして、早く家康を葬らなければならない。焦る三成は秀吉に相談した上で、ある計画を企てました。

それは、利休を使って家康を亡き者にしようという考えでした。

どんな計らいなのかというと、利休は家康の茶の師匠であるので、茶室に家康を呼び出してもらい、茶のなかに毒を盛って暗殺してしまえという卑劣な内容です。

三成からこの家康暗殺計画を依頼された利休は、特に表情を変えることもなく、声を荒げることもなく、静かにこれを拒否しました。

これは、どういうことかというと、利休からすれば、暗殺計画に加担しても実行犯として罪を被るのは自分であり、また断ったとしても、秘密を知ってしまった以上いずれ消されるのだから、もはや、死刑宣告されたようなものだったといえます。

事件の真相

山門事件のとき、大徳寺の統制体制は、北派と南派という二派に分かれていました。

そして、その北派もさらに二つに分かれていたのですが、春屋派とつながっていたのが三成であり、もう一方の古渓派とつながっていたのが利休です。

春屋を権力の頂点に立たせるためだったのでしょう、三成の讒言によって、古渓宗陳は大隅の国へ流されてしまうことになります。

でも三成の本当の目的は、その背後にいる利休だったのです。

それというのも、秀吉体制のもとで三成に相反する者たちというのは、ほとんどが利休を慕うものばかりだったからなんですね。

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大徳寺には、もともと諸堂伽藍を寄進した人には、その建物の角に小さな像を刻んで安置するというしきたりがありました。

だから、山門を寄進した利休の像が造られるというのは、至極あたりまえのことだったんです。

さらに、利休の木像が山門に安置されたとき、山門の建築責任者は古渓ではなく、春屋だったという事実もわかっています。

なのに、春屋は全くお咎めを受けていない。普通に推測すれば、利休暗殺を企て自刃させるように追い込んだのは、謀略を重ねる三成だとしか考えられないんですね。

歴史の史料というのは、その時の為政者によって様々に書き変えられるのでしょうから、全てがありのままに記録されているとは限らないのです。

ある著名な歴史作家は、仮にBという時代の史料に対して、どう考えてもおかしいと信憑性に疑いを持ったときに、どうすればいいのかアドバイスをくれています。

それは、Bの少し前の時代のAという時代の史料と、Bの少し後のCという時代の史料を突き合わせながら、その間にあるBの史実を推測するというやり方です。

前後の信頼できる史料を頼りに、自分なりの考察を持って、答えを導きだすしかないということを教えてくれているのです。

どの時代であっても、権力者たちの顔色を伺う記録者たちは、決して、その権力者たちを批判的には記載しなかったでしょうし、許されもしなかったのでしょう。

そして、いつの世にも、権力者たちは、欲望のままに利権というエサを貪り、ブクブクに太っていたに違いありません。

一方で、利休のように、そこに手を伸ばせばいつでも満たされることが出来るのに、あえて自制し、欲望のままにあることを拒むものもいました。

ゆずれない己の矜持を守るために、腹はすいているのに平気なふりをする、やせ我慢の美学。

人はそれをハードボイルドと呼ぶのです。