ユートピア
文明14(1482)年、応仁の乱が終わり、世の中が少し落ち着きはじめると、前将軍・足利義政は、頓挫していた山荘邸宅の造営に再び執りかかりました。
すなわち、現在「銀閣寺」と呼ばれている寺のことですが、もともとは、義政の終の棲家として山荘は造られたのです。
息子の義尚には将軍職をもう譲っていたので、なんの気兼ねなく、再び山荘の造営計画を実行しようとしていました。
それは自分の審美眼を発揮できる趣味の世界であり、思い描く理想郷をそこに造りあげるために、金に糸目をつけることなく庭園や建築造りを行ったのです。
絶対的無能者
応仁の乱という地獄絵図に何ひとつ手をうてなかった将軍として、当時の人たちに絶対的無能者と侮られた足利義政。
ただ、義政の政権が悪政の見本だといわれるようになったのは、じつは、応仁の乱のずっと前からなのです。
義政の時代は頻繁に一揆が起きて、その度に徳政(負債免除)要求がでています。
それに対して幕府は、驚くべき策略を考え出していたんですね。
まず、債務者が元金の何分の一かを幕府に収めれば徳政を認めるという「分一徳政令」を出すと、しばらく間をおいて、逆に今度は、徳政を禁制するかわりに債権者から元金の何分の一かを徴収する「分一徳政禁制」を出しました。
こうやって、交互にこれを運用することによって、債権者・債務者の双方からエンドレスに巻き上げるという強烈な収奪策を行ったのです。
さらに、諸国の関所廃止を強要する一方で、首都であった京都七口だけには大幅な追加関銭の徴収を実施しました。
ここから始まっていくこの腐敗した政策は、義政のもとで、管領も侍所も守護大名たちも一蓮托生となって進められていました。
つまり、誰も善政を志すものはいなかったということです。
いや、むしろ人が良くて気の弱い義政をうまく担ぎ上げて、自分たちの利益だけを追求するという人間たちしかいなかったのでしょう。
その取り巻きどもは、やがて血族内で陰湿な内部分裂を繰り返していきます。
三管領のひとつである斯波家、また有力守護・小笠原家、富樫家などで深刻な家督争いが起こりはじめました。
それは、幕府の中核をなす、細川、畠山、山名家などの内紛に飛び火していき、応仁の乱へと続く導火線となっていったのです。
この時代を調べていると、どうも義政が絶対悪とは思えないのです。家族も含めまわりの人間の欲望に翻弄されているように見えます。
政策が失敗し、世の中がなかなか前に進まなくても、それは内閣総理大臣だけのせいではなく、必ずそこに取り巻きたちの意見が大きく反映されているはずです。
でも、多くの人たちはわかっていても「なにをモタモタしてんねん」と、顔の見えるリーダーに怒りをぶつけるしかないのです。
苦悩する義政は、一方で、建築や造園を好み、文化の保護者となることに生きがいを見出していました。
そして、その方面には卓越した審美眼を持ち、一流の建築家や庭師の選び方にはさすがのものがありました。
さらに義政は宗教や文学にも通じ、連歌、能狂言、茶の湯、生け花を深く愛し、これらのパトロンとなって一流の才能を育てていきました。
これらが東山文化として後世の諸芸へと発展し、結果的に、義政が日本文化に大きく貢献したという側面があることも歴史の事実なのです。
直答を許す
中世のころ、現在の常識では考えられない、ひどい身分の区分というものが社会にありました。
時代劇によく出てくる「直答(じきとう)を許す」という、現在の日常では聞くことのない言葉があります。
身分が隔絶していると、直接言葉を交わすことはもちろん出来ないので、互いに声の届く距離にいても、あいだにいる中間の身分のものが取次ぎをしたのです。
たとえば、「〇〇はこう申しておりますが、いかがいたしましょう」とか「殿は、かようにおおせられている。あい分かったか」とか言って、互いに聞こえてるのに、いちいち仲介をしないといけなかったのです。
将軍に直接話すことなど許されるはずもなく、一般人は、庭に平伏して顔を上げることも出来ない状態というのが普通でした。
でも、義政は違いました。庭師や職人をどんどん座敷に上げて、「ここのところは、どうする、どう思う?」と、直に答えを求めたり、「こうしようか、うん、そのほうが自然だと思うんだよ」などと言って、プランのうち合わせに夢中になっていました。
また、職人たちが疲労や病で倒れたりすると、なんと、「無理しちゃダメだよ~この、頑張りやさん」と、見舞いにまで訪れていたのです。
これは、自分の趣味に役立つ庭師や職人だから大切にしたというわけではなく、義政が人に対して身分を超えて向き合う人物だったからこそのエピソードなんですね。
逆にいえば、だから将軍としてはダメだったのです。おそらく、天下を平定できるような人間には「悪の権化」のような性質が必要なのでしょう。
当時、生きていた人々にとって、義政はとんでもない悪将軍だったかも知れない。
でも直接、義政に触れ合った人たちにとっては、こんな有難い人はいない、今まで生きてきたなかで、聞いたことがない素晴らしい将軍だったのです。
当然、東山山荘の建築や作庭のクオリティはどんどん上がっていきます。
義政の期待に応えるために一流の才能たちが全精力を傾けるのですから。
義政を救ったもの
そして、その思いは引き継がれて、300年の時を超え、江戸時代中期に銀沙灘(ぎんしゃだん)、向月台(こうげつだい)という傑作を生みだします。
銀閣と呼ばれる二階建ての観音殿の前に広がるのが銀沙灘と向月台、そこには、白砂の海が広がっているのです。
白砂を使った九条の縞のデザインで波を表現した銀沙灘。
同じく白砂を盛って円錐形の上部を切り落とした高さ2メートルの向月台は、まさにモダンなオブジェといえます。
白砂には水晶と同じ成分が混ぜられていて、よく見るとキラキラと光っている。
月に照らされるとこの庭は青白く光り、幻想的な青の世界が広がるのです。
銀閣は銀ではなく、黒漆で覆われていたのですが、白砂の銀沙灘、向月台と一緒に、黒漆も月に照らされ強く輝きを放っていました。
義政が造営した山荘(銀閣寺)のコンセプトは、先祖から引き継いだ後世の庭師たちによって、さらに現在へと、少しもぶれることなく伝わっています。
将軍も職人も関係ない。身分、区分がどうした。
義政は、夢中になり、今日なかったものを明日のために、仲間と共に造り上げたかっただけなのです。
人は、やっぱり人に救われるのでしょう。精魂を込めた庭造りという人生最後の大仕事を、義政は庭師たちに託したのでした。