こうへいブログ  京都案内 そして スラスラと流れるような文章が書けるようになりたくて

京都観光案内 その裏に隠された物語のご紹介と、それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

平安京

東寺  そこにあるのはパラレルワールドだった

政教分離 794年に、国家権力の中枢として人為的につくり出された平安京。それは、政治的な意味を強く帯びた新政都市でした。 このとき同じタイミングで平安京に創建された東寺・西寺も、国家鎮護の目的だけで建てられたわけではなく、唯一この国で、公式…

時代の覇者となった平清盛 武士が表舞台に登場した背景

六波羅 俳優の仲代達矢が大河ドラマで平清盛を演じることが決まったとき、訪れたのは、京都・松原にある名刹・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)でした。 役作りのために、境内に安置されている清盛の木像を仲代は一身に見つめていたのです。 平安時代後期、この…

応天門の変  不可解な謎に満ちた難事件

平安京のシンボルといわれた朝堂院。平安宮の中心となる建物でしたが、その正門があの応天門です。 ここで起きた応天門の変は、日本史上有数の不可解な謎に満ちた政治的疑獄事件と言われています。 また、明治28年に平安遷都1100年を記念して建立され…

木曽義仲と巴御前  その女傑 まことに美麗なり

木曽谷に逃れて 平家総帥・清盛が倒れた後、京都から平家一族を追い落したのは源頼朝ではなく、信州・木曽の山中で挙兵した木曽義仲でした。 義仲の本姓はもちろん「源」であり、木曽の住人である「源義仲」というのが正式な名前なのです。 義仲と頼朝は互い…

高山寺 「鳥獣人物戯画」 失われたエピローグ

謎多き国宝絵画 世界遺産・高山寺が所有する国宝絵巻「鳥獣人物戯画」。 漫画の元祖と名高いこの国宝戯画は、甲・乙・丙・丁という筆様の異なる4巻の絵巻で構成されています。 擬人化されたウサギやサル、カエルなどが自然の森の中で戯れるさまを描いた甲巻…

応仁の乱  失われた平安京

空位となった将軍職 応仁元(1467)年から11年間にわたって続いた「応仁の乱」によって、中世の京都は完膚なきまでに焼き尽くされ、焦土と化しました。 応仁の乱は、足利将軍家や有力大名たちの家督争いからはじまり、やがて全国規模の軍事的な衝突へ…

宇治平等院で命尽きた源頼政  「遅くはないさ、はじめればいい」という口ぐせ

その大義名分 治承4(1180)年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に対し、平家追討の令旨(りょうじ)を出しました。 令旨とは、皇太子や親王の命令を記したものですが、上皇の命令である院宣(いんぜん)や、天皇の命令である勅…

法勝寺  巨大で奇抜 八角九重塔はなぜ建てられたのか ②

時の流れ 治暦4(1068)年、藤原摂関家と外戚関係を持たない後三条天皇が帝位についたのは35歳のときでした。 「えも知れぬ重圧を感じるのは、関白摂政が天皇の外祖父であるからのことで、私とは全く無縁のことだ」と、この時、後三条帝は周りに豪語…

法勝寺  巨大で奇抜 八角九重塔はなぜ建てられたのか ①

院政 平安時代、白河上皇に「天下の三不如意(ふによい)」という有名なエピソードがあります。 賀茂川の氾濫、双六の目、延暦寺の僧兵、この三つだけは自分の意のままに、思い通りには、どうしてもすることが出来ないと上皇が嘆いたという話です。 ですがこ…

空海の足跡  高野山から東寺へ そんな遠くに行かんかて

絶賛された目録 唐から帰国していた空海が、やっとのことで、なんとか都にある高雄山寺(神護寺)に入れたのは、大同4(809)年のときでした。 空海は、国から20年の留学を命じられていたのにもかかわらず全く聞き入れないで、わずか2年で唐から帰国…

伝教大師と弘法大師  「育てる人」最澄の密教への心残り

後世への影響力 偉大な功績を讃えられたことで、伝教大師という諡号を与えられた最澄。そして、その永遠のライバルであった弘法大師・空海。 最澄は日本天台宗の祖であり、空海は真言密教をこの国にもたらしました。 この天才宗教家ふたりの根本的な違いとは…

六孫王神社  臣籍降下と源氏のルーツ 

なぜに臣籍降下は始まったのか 私たちは「源氏」というと、源頼朝・義経など、「武士の源氏」を強くイメージします。 実は「源」という姓は、皇族、つまり天皇一族が「臣籍降下」(しんせきこうか)する際に与えられた姓であり、それは嵯峨天皇のときに始ま…

平安京の誕生  それは革命のとき 長岡京をあとにして

山の背後へ 延暦3(784)年、桓武天皇は平城京を棄てさり、長岡京への遷都を行いました。 ですがその長岡京も僅か10年という短命に終わり、さらに平安京へと遷ることになります。 平安京は現在の京都市内であり、長岡京は現在の京都府の向日市・長岡京…

神護寺  国宝 源頼朝 平重盛の肖像画はなぜこの寺に残されたのか

木々に囲まれた山域に清滝川が流れる、京都市の西北部にある高雄山(たかおさん)。 その渓谷から、乱れ積みの長い階段を登り切ったところに建つのが古刹・神護寺です。 平安京が出現する少し前の天応元(781)年に、高雄山寺として創立された古い歴史を…

清凉寺  生身の釈迦像 それはホンモノと入れかわったのか

大変なものが 清凉寺の所蔵する「釈迦如来立像」に対して、文化庁が国宝指定のための調査を行ったのは、昭和28年7月29日のことでした。 調査員が像の背面を調べようと、まず光背(こうはい)をはずし、その背面に手をあてたとき、ズズッと何かが下へす…

東寺  言葉だけではたどりつけない世界 立体曼荼羅

ただ一度だけの炎上 延暦13(794)年、桓武天皇は京都遷都にともない、羅城門を挟んで二つの寺、東寺と西寺の建設を命じました。 平安京を守護するための官寺として建立されたのですが、外国からの来賓客の宿泊に主に使用されていました。 そして東寺の…

鞍馬寺  毘沙門天立像  わずかな光のなかに道はある

はるか彼方を見すえる鞍馬寺の毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)。 左手を額あたりにかざして、遠く、平安の都を見守っています。 北方から都を守護するため、秘境の霊山というその場所に立ち続けてきました。 ま昼でさえ漆黒のような暗闇に覆われる…

水の都  扉を開けたら 霧雨のなかの平安京 

それは歴史的発見 平成11年、神泉苑にほど近い京都市立西京商業高校のグラウンドが発掘され、極めて貴重な遺跡が発見されました。 それは平安時代の寝殿造り、貴族の邸宅と池泉庭園が、そっくりそのままの形で姿を現したのです。 池の大きさは、東西15メ…

和気清麻呂  平安京建都 約束の場所  

戦前の日本において、楠木正成と共に、二代忠臣と呼ばれたのが和気清麻呂(わけのきよまろ)です。 楠木正成は、南朝を守るために武人として壮絶な最期を遂げましたが、清麻呂は、王朝の万世一系という神勅を命懸けで守った官人でした。 女帝と怪僧 神護景雲…

法成寺を建てた藤原道長  欠けることのない満月 

酒の席での戯言 平安時代最高の権力者といわれる藤原道長。 大勢の公卿を自宅に招いた宴の席で「私は欠けることのない満月だ。この世界は私のためにある」という趣旨の和歌を詠み、その場を凍りつかせました。 その慢心に聞こえる自画自賛は「酒の席での戯言…

和泉式部  恋愛歌人 そのバラ色の生涯

誰もが振り返る美貌 平安時代、王朝の三才女と呼ばれたのが、清少納言と紫式部、そして和泉式部です。 この三人の女流作家は、ともに、一条天皇の中宮のもとに女房として出仕していました。 まず最初に、中宮・定子に仕えたのが清少納言で、その後に中宮とな…

清少納言  February Morning  東の空を見上げて

春はあけぼの。それは余韻をもたせた日本的表現 四季折々の風物が見事に描写された「枕草子」。 清少納言の観察力と感性の鋭さで描かれた、その平安文学の傑作は、今日読み返されても色あせることはありません。 「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは…

法性寺  藤原北家 その偉大なる系譜の氏寺

藤原北家の摂関独占 平安時代初期から後、藤原四家のなかで摂政・関白の座を独占したのは藤原北家でした。 かって勢力を誇示していた南家や式家は、相次ぐ政争に巻き込まれてすでに失脚していました。 院政期以降は形骸化したとはいえ、明治維新までの900…