京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

飛雲閣 秀吉の足跡  それは聚楽第・伏見城の遺構なのか

西本願寺の境内にそびえる国宝・飛雲閣は、金閣寺、銀閣寺とともに京都三名閣と呼ばれています。

豊臣秀吉が造営した聚楽第の遺構なのだと、以前はそう伝えられていました。

じつは、はっきりとした確証がいまだ得られていないために、真か偽なのか論証は続いているんですね。

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秀吉が引き継いだもの

戦国時代、本願寺と織田信長の間には根深い確執があり、本願寺の本拠地である石山本願寺をめぐって、11年間もの攻防が続いていました。

信長の本願寺に対する嫌悪感はかなりのもので、顕如が率いる本願寺に対して徹底的に戦いを挑んでいます。

また、この時代のころまでは、いわゆる国一揆だけではなく、各宗派による宗教戦争も当然いたるところで勃発していたのです。

天台宗山門派と日蓮宗の大規模な対決もそうですし、日蓮宗による浄土真宗・山科本願寺の焼き討ち事件も起きています。

中央政権の統治権が機能していない無秩序な状態が長く続いているという時代背景がそこにあったので、この時代の各宗派というのはまさに武装勢力そのものでした。

各寺院は信者たちを守らなければならないので、戦力を強化することもやむを得ない状況下にあったんですね。

そんな宗教抗争を終焉させようとしていたのが信長であり、それを引き継いだのが秀吉でした。

やりかたが違っても彼らが目指していたところは同じだった、つまり、秀吉とは、信長の平和構想の信念をそのままに受け継ぐ天下人だったのです。

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秀吉と本願寺

そして秀吉が選んだ本願寺に対しての接し方は、信長とは真逆の応対でした。

本願寺を折に触れて保護した秀吉は、ほかの宗派よりも明らかにこの組織を大切にし、優遇しています。

実は現在の西本願寺の敷地は、秀吉が本願寺に自由に選ばせた場所なのです。

このころに実施された京都都市計画のとき、洛中にあったほとんどの寺社が寺町に移転させられたのに対し、本願寺のみが対象外とされているんですね。

仏教界の平和概念の統一を目指していた秀吉がその代表的象徴として選らんだのは、自身も帰依していた本願寺の阿弥陀如来でした。

阿弥陀は西方浄土の主宰者であり、この仏に祈ることは、そのまま極楽往生につながることになるのです。

秀吉にとって、これほど平和構想の目的に合致する仏は他には考えられなかったんですね。

このように、秀吉と本願寺の関わりは深く、飛雲閣のように秀吉ゆかりの遺構だと伝わる建築物が西本願寺には数多くあります。

能舞台や対面所、虎渓の庭などですが、いずれも聚楽第、伏見城の遺構だと言われてきたのです。

それが、否定されるようになったのは、「西本願寺の境内全てが、1617年に一宇ものこさず全焼した」という記録が出てきたことが近年の研究でわかったからです。

つまり、1600年の時点で、聚楽第も伏見城もすでにこの世に残っていなかったはずなので、もし、それらの建築群がすでに西本願寺に移築されていたと仮定するならば、この1617年の火災ですべて灰燼と帰していることになります。

さらに、対面所に徳川家の葵紋が使われていることから、1634年の家光の上洛にあわせて新たに造営されたのではないかという説もでています。

それらが真実ならば、罹災のあとに、全焼した伽藍群を西本願寺が再び忠実に再現させたのかもしれません。

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解放が訪れた時代

聚楽第、そして伏見城と、このコンビが連なってピックアップされるのは、伏見城の建築物のほとんどが聚楽第から移築されたものだからです。

1595年に聚楽第が取り壊されるときに、多くの建築物が伏見城に移築されたので、伏見城は十ヶ月という異例の早さで完成しています。

だから、聚楽第から伏見城に、さらに西本願寺へと、多くの遺構が移築されてきたという可能性が当然濃厚なのですが、それらの移築建築群が【現在の西本願寺の伽藍群なのか】という点では、1617年の全焼火災の記録と照らし合わせることで、どうしても疑問が残ってしまうのです。

ただ、どちらにしても、西本願寺にある国宝の建築群が、桃山から江戸時代初期という解放の喜びにあふれた時代をその姿に映し出した、あまりにも魅力的で貴重なものであることに変わりはありません。

望楼を抱く数寄屋建築

飛雲閣については、再建されたものだとするならば、元和年間(1618~24)、あるいは寛永年間(1624~44)ごろの建築ではないかと推測されています。

それは、南面および北面25.8メートル、東面11.79メートル、西面12.47メートル、杮葺き仕様、滄浪池(そうろういけ)に臨んで北面に建つ、三層の楼閣建築です。

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上下を貫く中心軸を用いない建築構造になっていて、取り付けられた屋根や窓は、さまざまな造形の外観で表現されています。

一階部分は向かって右が付書院の入母屋造り、向かって左が唐破風屋根、二階部分は右が花頭窓、左が軒唐破風屋根という、まったく左右アンバランスな構造になっていて、三階の望楼(摘星楼)だけがシンメトリーでデザインされているという特有のこの数寄屋建築は、まさに他に類を見ません。

また、飛雲閣は、舟入りの間と呼ばれる舟から直接建物に入る仕組みを持つ唯一の現存する茶亭です。

二階部分には平安絵巻のような三十六歌仙の姿が描かれ、金箔があしらわれて、雲間から太陽が顔を出すたびに強烈な光を反射し、輝きを放っているのです。