京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

龍安寺  謎につつまれた石庭 義政と庭師たちの有縁 

研ぎ澄まされた静寂の空間

嵯峨野から金閣寺へと続く、きぬかけの路(みち)。

その霊気がただよう路から視線を上げると、すぐそこに、衣笠山(きぬがさやま)から朱山(しゅざん)が連なっているのが見えます。

この山々のふもと一帯は、平安時代末ごろの天皇陵を中心とした聖なる場所であり、龍安寺七陵と呼ばれています。

そう、朱山の南麓を背にして建つ龍安寺(りょうあんじ)は、平安時代、円融天皇の御願寺であった円融寺、その旧跡を寺域とするのです。

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宝徳2(1450)年、室町幕府管領・細川勝元によって、龍安寺は建立されました。

当時、藤原北家をルーツとする名家・徳大寺家の山荘となっていたこの場所を勝元が譲り受けたのです。

龍安寺には格調ある七堂伽藍が整えられ、修業の僧にとどまらず多くの人々が帰依し集まり、龍安寺の本山である妙心寺の復興にも繋がりました。

さらに、長禄3(1459)年、妙心寺開山・関山慧玄の百年遠忌(おんき)を勝元は龍安寺で営み、このとき、京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)を通して、京市民たちに十万銭を施しているんですね。

ですが、このわずか5年後に勝元が応仁の乱で一方の首謀者となり、龍安寺も含め、京の街を焦土にしてしまうなどと、誰が想像できたでしょうか。

エリザベス英女王の来訪

龍安寺といえば方丈庭園が余りにも有名ですが、それは、白砂敷き詰めた特別名勝、世界文化遺産の石庭なのです。

昭和50年、竜安寺を訪れたエリザベス英女王が方丈庭園を絶賛したことで、そのあと数年間、この石庭は人いきれに包まれることになります。

また、波模様デザインの白砂と15個の石で表現されたこの庭には答えはないのだと言われているんですね。

この石庭の造形が何を意味しているのか、いつ作庭されたのか、そして作者は誰なのか、全てが謎のベールに包まれているのです。

ただ、おぼろげながら、少しづつですが、その謎が今日では明かされようともしています。

歴史家たちの研究が進むうちに、その神秘性の裏に隠された人間模様などが薄っすらと面影を見せはじめたのです。

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秀吉と糸桜

天正16(1588)年、豊臣秀吉が龍安寺を訪れ、和歌を詠んでいます。

このとき、同席した6名も含めて、だれひとり石庭について詠んだものはいませんでした。

庭にあった糸桜については、秀吉を筆頭に全ての参加者が詠んでいるのに、最もインパクトのある石庭については誰も触れていないのです。

このときの糸桜の古株は、今も方丈の西北の場所に残されていて、その古株の直径からかなりの大樹だったことがわかります。

だから、秀吉たちが歌に詠むのに十分だったことが理解できるのですが、石庭についてはどうも腑に落ちないのです。

やはり、どう考えても、この時点で石庭はまだ存在しなかったのだろうと予測されるんですね。

 禅宗寺院としての庭

もともと禅宗寺院の庭というのは、晋山式などの儀式としての場所であり、鑑賞用としては用いられていませんでした。

それが、現在のように、ほとんどの寺院で見られるみごとな庭の構図、洗練された技術が競われるようになったのは、いつからなのでしょうか。 

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元和5(1619)年、黒衣の宰相といわれた南禅寺の金地院崇伝が、天下僧録司という禅宗寺院を総括する最高職につきます。

そのあと、崇伝が最高職就任の新たな改革として新寺院諸式を完成させたので、禅宗の庭は儀式の場としての必要性を持たなくなりました。

それによって、禅宗寺院に次々と鑑賞用庭園の作庭が許可され、造られるようになったんですね。

崇伝が住持を務めていた別格優遇寺院・南禅寺の庭園でさえも、鑑賞用庭園が造られたのは寛永9(1632)年のことです。

南禅寺よりも遥かに寺格の低い龍安寺が、それよりも早くに庭石を配するのはとても無理だったろうと思われ、この時点でもまだ石庭は存在していないはずです。

謎に満ちた絵図

寛政11(1799)年、『都林泉名勝図会』という京都の名所案内、今でいう観光ガイドブックが出版されました。

絵図をベースとして、説明が加えられている貴重な資料であり、龍安寺石庭が描かれた最初、つまり最古の図が掲載されています。

ここに載せられた「龍安寺方丈林泉」を見ると、樹木を使わず池など水面も一切なかったことがわかります。

林泉とはなっているものの、平庭に少しばかりの石が配置されているだけの、石庭としか表現できない様子が見てとれるのです。

注目すべきは、この絵図の中にただ一ヶ所だけ、四角く枠で囲われて書かれている文字です。

この文字は小さいうえに、刷りが鮮明ではなく、非常に読み取りにくい文字だったので、多くの研究員たちがあらゆる手段を使って分析にあたりました。

そして、図中に枠付きで書かれていた文字は、「義政公御殿垣築地」と読めることが解明されたのです。

室町幕府八代将軍・足利義政の御殿の垣あるいは築地が移築されたものだという説がこの頃あったのでしょうか。

真相はわかりませんが、ともに記載された説明文のなかに、石庭は、義政に重用された相阿弥の300年前の作庭であると補足されています。

ですが、秀吉や崇伝の記録から推測されるように、相阿弥作庭説とするにはかなり厳しいものがあるでしょう。

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義政の本当の顔

義政は将軍でありながら、家来や庶民に対して、そう、人に対して態度を分け隔てすることのない、この時代では考えられない稀有な最高権力者でした。

銀閣寺の作庭工事にあたっても、庭師や職人をどんどん屋敷に上げて、友達のように仲良く談話し、皆の体調まで心配しています。

銀閣寺庭園が完成したとき、「すごくいい庭園になったと思うんだよ。みんな本当にありがとうね」と、義政に声をかけられた庭師たちは、嬉しさのあまり、しばらく動けなくなったといいます。

銀閣寺も龍安寺も同じ臨済宗の禅寺とはいえども、この石庭にまで、室町時代から300年の時を超えて義政の名が出てくるのです。

レッテルを張られている歴史上での悪評とはウラハラに、直に触れ合った人々から伝わり広がったと予想される義政の評判は、本当はかなりの高評価だったのかもしれません。