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京都観光案内 その裏に隠された物語のご紹介と、それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

祥雲寺  東山七条 地下に眠る歴史的・客殿遺構

東山七条にある名刹・智積院(ちしゃくいん)の講堂が平成4年に再建されたとき、事前に建設予定地の調査が改めて行われたことで、歴史的な遺構が発掘されました。

なんと、智積院の前身寺院として知られる祥雲寺の桃山時代の客殿遺構が見つかったのです。

大書院と名勝庭園の池泉に面した客殿跡は、東西36メートル、南北23メートル。

客殿建築では国内最大級の規模であり、このとき新築された智積院の講堂の地下に現在は保存されています。

悲しみ深く

その祥雲寺は豊臣秀吉の発願によって建立されたのですが、秀吉にとって特別な意味を持つ弔いのための寺院でした。

天正17(1589)年、秀吉は53歳にして、ついに待望の長子に恵まれます。

棄丸(すてまる)と名付けられたその子の生母は、本妻の北政所(ねね)ではなく、妾の淀殿(茶々)でした。

やっと恵まれた子宝でしたが、棄丸はわずか3歳で病死してしまい、洛西・妙心寺で遺体は手厚く葬られることになります。

秀吉の悲しみは深く、しばらくの間、何も聞こえない、何も話さない、何も飲まない、食べないという精神状態が続いたのです。

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そして翌年、妙心寺58世の南化玄興を招き開山として、棄丸の成仏を強く願い祥雲寺は完成しました。

それは、まるで秀吉が棄丸に注いだ大きな愛情を示すかのような、どこまでも壮麗な建築が立ち並ぶ伽藍群です。

さらに、その客殿内部には、のちに国宝となる障壁画、そう、ある天才画家の金碧障壁画が飾られていました。

千利休によって秀吉に紹介されたその天才画家は、溢れる才能に満ちていたのに、なかなか陽の目をみるきっかけにめぐまれずに、世に出てくることができませんでした。

ですが、この祥雲寺の作品を描いたことで、一気にその名が都中に広がることになったのです。


慶長3(1598)年、秀吉が亡くなり、その6年後には南化玄興も示寂しました。

その後、南化の弟子である妙心寺の海山元珠(かいざんげんしゅ)が祥雲寺の事実上の住持を務めることになります。

愚にもつかぬ誤り

そこから16年の月日が流れた慶長19年、あの方広寺・鐘銘事件が起こります。

銘文の中の「国家安康」が徳川家康の名を分断せしめ、「君臣豊楽」が豊臣家の繁栄を祈るという徳川を呪う銘文を、何故お前たちは作成するのだと、家康が豊臣家に難癖をつけてきたのです。

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このとき家康は、臨済宗・京五山以下の高僧たちに、この銘文について意見を求めます。

勝ち組路線を突っ走るこの頃の家康の威光に、皆恐れをなして、触らぬ神に祟りなしと、口を揃えてこの銘文を批判しました。

ところが、そのなかで一人だけ声高々に「なにをもうされます。そのような疑いは愚にもつかぬ誤りと、本当はお気づきでしょうに」と、言い切った僧がいたのです。

それは、祥雲寺の海山元珠その人でした。家康の顔はみるみる紅くなり、憤怒の表情へと変わっていきます。

あの日の記憶

家康の脳裏には、どうしても拭いきれないある光景が、いつまでもこびりついて残っていました。

それは慶長9年の焼けつくような夏の日、8月に行われた秀吉七回忌・豊国社臨時祭のことです。

このときの民衆の熱狂はすさまじく、方広寺の門前で物凄い数の京の人々が、秀吉の追慕、秀頼への親しみを込めて踊り狂っていたのです。

ゆらゆらと揺れる陽炎の向こうにその光景を見た家康は、嫉妬からくる怒りなのか、勝手にガタガタと震える体を抑えることができませんでした。

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「ワシはいったい何歳になったと思っとるんじゃ。いつまでも、いつまでも目の前をウロウロしやがって」

慶長20年、ここに家康は自らの寿命と闘うように、ついに大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させました。

「ついに倒したぞ、ついに豊臣どもをこの世から消した」

すぐに、豊国社は廃され社領一万石を召し上げられます。秀吉の「豊国大明神」という神号も剥奪され、豊国社境内にある祥雲寺も没収されました。

寺を追われることになった海山は、棄丸の木像を抱きかかえて妙心寺の自坊に帰ることになります。

桃山時代の最高傑作

祥雲寺の伽藍は家康に庇護されていた新義真言宗・智積院に与えられましたが、天和2年に大火災により客殿を除き、ほとんど焼失します。

ここに、祥雲寺からの伽藍や所蔵は、ほとんどがこの世から姿を消すのですが、客殿にあった金碧障壁画は助けだされたのです。

それは、染色業から地方町絵師に転身することで、天才的な色彩感覚を開花させた長谷川等伯とその一門たちによる桃山障壁画です。

それまで誰も表現できなかった漢画と大和絵彩色画を融合させた色彩、漢画に日本的な情趣を与えるという新しい技法で描かれていました。

障壁画には署名もなく、確実な記録は残されていないものの、国宝「楓図」が統領の長谷川等伯、同じく国宝の「桜図」が息子の久蔵の作品であることは確実視されています。

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どの障壁画も迫力の大画面、華美な色彩の世界なのですが、やはり、最も注目すべきは等伯の「楓図」ではないでしょうか。

楓図の向かって左へ伸びていた一本の幹が、いきなり激しく途中で上向きに屈曲するというダイナミックな筆致は衝撃的です。

水量の豊かな河が一瞬よどんで静止し、再び猛然と噴流するさまを、等伯はみごとに表現せしめたのだと言われているんですね。

永徳を代表とする狩野派や土佐派たちとは全く異質なこの個性、この表現こそが真の日本的障壁画なのだと、当時のブルジョワジーたちの評判になり、等伯はその名を一躍高めることに成功したのです。