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伏見城  鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦

激戦地 伏見城

慶長5(1600)年、関ケ原の戦いに突入するころ、京都・木幡山にある伏見城は、前哨戦とされる激戦地になっていました。

徳川家康がその生涯で最も信頼したという老臣・鳥居元忠(もとただ)。

その元忠を総司令として伏見城を占拠する東軍、それに対して、襲撃したのは石田三成に統率された西軍でした。

つまりこの時、伏見城を占拠していたのは家康であり、秀吉の臣下だった三成が攻撃を仕掛ける側だったのです。

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今後、守備の要となるであろう伏見城を重要視していた家康は、極めて有能な家臣たちを元忠の補佐として宛てがっていました。

内藤家長と、その息子元長、さらに松平家忠、松平近正といった超一級クラスの武人を選んで防衛にあたらせ、万全の体制でそなえていたのです。

友よ

家康が京を離れる前夜、伏見城で家康と元忠は、二人でしみじみと酒を酌み交わしていました。

この時、元忠は顔では笑いながらも、「本軍に存分に戦い勝利してもらうため、ここはワシが捨石となろう」と、覚悟を決めていました。

だから、「城を守るのに、まだちょっと不安なので精鋭部隊をもっと増やすよ」と、家康が元忠に提案したのに、「とんでもないです。逆に、内藤家長や元長たちをそちらのお供に加えてください」と、返答したのです。

そう、一聴すると美談のように聞こえますが、思惑の大きな食い違いが二人の間にはあったのです。

数日後、ついに伏見城の攻防戦が始まり、しばらくして、東へ向かう軍行にいる家康のもとへ、元忠からの戦況報告の使者が向かいました。

伏見城の前にある極楽橋を元忠が自ら爆破して、本丸に籠城する覚悟を決めたというのです。

家康は驚き「極楽橋を落としてしまったら、攻める戦いができないじゃないか。何でそんなことをしたんだ」と嘆いたといいます。

伏見城を捨石にしようなんて、もともと家康は全く考えていなかったのです。

それどころか、攻防戦に勝算すらあったのに、元忠の行き過ぎた思惑と頑固さによって、家康の立てた戦略は崩れ去っていくんですね。

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己、一匹のサムライ

そして、戦いが続くなかで、どちらかというと西軍よりの薩摩の島津義弘が元忠に協力を申し出ます。

じつは島津義弘は、秀吉の死後、家康と懇意な間柄になっていたので、伏見城の惨劇を見ていて堪えられなくなり、元忠を助けようとしたのです。

さらに、このころには徳川の味方となっていた高台院(ねね)が、西軍側だった甥の小早川秀秋に内命を出しています。

それは、密かに元忠と連絡を取り、協力するように命じられたものでした。

ですが、元忠はこれらを全て拒否しました。なにかのワナに違いない、ワシを甘くみるんじゃないと、まったく受けつけなかったのです。

その結果、島津軍、小早川軍から猛攻撃をくらうことになります。

これは元忠に無下に断わられたから、島津・小早川両軍がともに怒ったのではなく、小早川たちは、元忠を助けようとした一連の動き、そう西軍側から見れば明らかに不審な動きをしていたので、味方からの疑いを払拭するために、必要以上に伏見城を攻めなければならなかったのです。

悲しき裏切り

秀吉が残したこの巨城は、やはり城郭としての機能に優れていて、攻め入る西軍方にも多くの犠牲者が出ました。

あと数日耐えることが出来たなら、援軍が伏見城に戻ってくるまで状態を保てるはずだったのです。

ですが、ここで信じられないことに、城内に裏切り者がでることになります。

西軍側の長束正家が甲賀の里に侵入し、一族を捕らえ人質にして、「我らに内応しなければ城の前で人質を磔にするぞ」と、伏見城内で東軍として戦う甲賀忍者たちに対して、城内に矢文を射込ますという遠隔操作を使い脅しをかけたのです。

これに従わざるを得ない甲賀忍者たちは、涙を流しながら「許せ~」と叫び、そこら中で城内の味方に斬りかかります。

そこから先、伏見城のなかは地獄のような展開となり、気がつけば城内のあちこちで火の手が上がっていました。

西軍側からの和議の呼びかけが何度もありましたが、みなの予想通り応じることなく、ついに元忠は武将らしく自刃して果てたのです。

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元忠のこの一連の動きは、現代社会に生きる私たちにとって腑に落ちないところが確かにあると思います。

ですが、この時代の誇りをもった優れた武将の感覚では、たとえ身が滅びても、敵に施しを受けることなど許されない恥ずべき行為だというのが当たり前の心境だったのかもしれません。

伏見城陥落

そして、慶長5(1600)年8月1日、ついに伏見城は陥落しましたが、この時、どうやら建物や施設で焼失をまぬがれたものが、わずかながら残っていたらしいのです。

それらは、御花畠山荘、弾正丸、山里丸の三つと伝わり、ほとんど無傷のままだった確率が高いのです。

本丸から離れた敷地内の四方の端に建っていたために、うまく火災をまぬがれたのではないでしょうか。

ただ、「伏見城はことごとく焼きはらったので、なにひとつ残ってはいない」と、石田三成が書状に記しているために、今日では物議を醸すことになったんですね。

引き継がれた遺構

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現在、伏見城の遺構として、各地の寺院に豪華な建物が引き継がれているのは、この三つの建物から移築されたものといいます。

おそらく、この時の遺構だとされている濃厚なものが二つあり、ひとつは東山七条にある豊国神社の唐門です。

この唐門は、もともと聚楽第にあり、そこから御花畠山荘に移され、さらに二条城、金地院を経て明治年間に豊国神社に移されたのだといいます。

その巨大な唐破風の軒垂の流れの豪快さと、正面を装飾している太閤桐の蛙股の雄大さで、その国宝は知られています。

もうひとつは、琵琶湖の竹生島にある都久夫須麻神社の本殿の内部です。

山里丸にあった学問所の一部が移築されたと伝わり、住宅風の佇まいのなかにも桃山町の華麗な雰囲気がある、秀吉の面影が映し出される演出がそこには見えるんですね。

 

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