悪女と呼ばれて
室町幕府八代将軍・足利義政の正室であり、希代の悪女と呼ばれた日野富子。
尼将軍と名高い北条政子に匹敵する女傑だと好評価がある一方で、悪女、悪妻、応仁の乱の主犯、高利貸、守銭奴と、ありとあらゆる酷評も伝わります。
そして当時、富子に対して特に批判的だったのが、貴族や僧侶といわれる人たちでした。
彼らこそが、後世に残る史実を書き残す存在であったので、のちの世に、自然に富子の悪評ばかりが先行することになります。
でも実際はどうだったのでしょう。本当に、彼女は、そんな私利私欲にまみれた自己顕示欲のかたまりのような女性だったのでしょうか。
日野家と今参局
日野富子は、当時20歳だった義政のもとに、16歳のときに嫁いできました。
日野家というのは、平安時代から日本を支配し続けてきた藤原北家の流れをくむ名門の公家一族です。
室町幕府三代将軍であった足利義満に日野業子という女性が嫁いできてから、九代将軍・義尚(よしひさ)に至るまで、脈々と、代々の将軍の正室及び側室として足利家と姻戚関係を結んできたのです。
将軍家と姻戚を結ぶことで勢力を扶植しようとする家は、当然、他にも多数あったので、日野家だけが安泰だったわけでもなく、幕府内での女性同士の派閥対立ということがあったのも、安易に想像することができます。
特に、義政の母親である日野重子と、義政に溺愛されていた今参局(いままいりのつぼね)という女性の主導権争いは有名で、敗北した今参局が沖島に流されることになり、なんと、彼女は護送中の途中で切腹してしまうのです。
この事件は、女性が初めて切腹という自害行為に及んだ事例として、人々の記憶に深く刻まれることになりました。
この頃、富子も義政のもとに嫁いできたばかりのことだったこともあり、身近で起こったこの悲劇に、かなりショックを受けています。
なにしろ、重子が同じ日野家の富子を義政の正室にするために、そのために邪魔だった今参局を追い払うことで勃発した主導権争いから起きた悲惨な事件であったのですから。
ですが、将軍家に嫁ぐ家の出身であり、当の本人の立場である以上、こういった事例は続いていくことになるのです。
いつしか富子は派閥闘争に巻き込まれる日々のなかで、政治に対する見識やするどい感覚を身に着けていき、ちょっとやそっとで怯まない、タフな精神力をそなえる女性へと成長していくのでした。
富子の経済政策
義政の政権下で起こった応仁の乱は京都の街を焼き尽くしました。
応仁の乱とは、幕府の失墜により統治権が機能せず、下剋上が巻き起こったことが原因で発生したようなもので、将軍家の責任は大きいといえます。
義政は、身分によって人を差別することのない、誰に対しても優しい権力者でしたが、それは他に類をみない稀有なことでした。
逆に、それが家臣たちの勝手気ままな行動を誘発することになり、混乱を引き起こす根本的原因になったことは間違いないでしょう。
将軍として、他の将軍では考えられない、その稀有な振る舞いこそが、応仁の乱という歴史に残る悲劇を導いたといえるのです。
この戦乱による浪費により幕府は経済破綻へと陥ります。そこから、再建、財政の立ち直しをはかったのは誰であったか。
「政道は御台(富子)の沙汰なり」、そう、息も絶え絶えだった幕府は、富子の政治手腕と抜群の経済センスによって、再生への道を突き進んでいくのです。
財政の立て直しをはかるためには、まず何よりも収入の確保を担保しなければならない。
富子はいくつかの積極的な収入増加策を立案、実施しました。
まず、京都に入る七口と呼ばれる七つの街道に関所を設けて通行税の徴収を義務付けます。
京都の中心部である京都市内は、山脈のカーテンに囲まれているために、つながる街道が限られているのです。
応仁の乱が収束したということは、この先に待っているのは平和の回復であるので、ヒト、モノが飛躍的に都である京都に流入することになります。
経済活動の復旧に伴い、あらゆるものの動きが活性化します。その絶妙のタイミングで富子は関所を設けたのです。
つぎに、財源の資金運用による収入増加策を実施。
幕府の収入源であった年貢収入や関銭収入を元にして、守護大名をはじめとする多くの富裕層に金銭を貸し付けたのです。
その金利は幕府の権力を後ろ盾とした、それは、それは高利な利子でした。
そして、またこれも、復興による設備投資が必要とされたタイミングにうまくリンクしたものであったんですね。
さらに、特に財政確保に効を発揮したのが米取引への積極的参入です。
巨大な米倉を何棟も確保して、大量のコメを確保する。相場の高下を読みながら売買し、利益を確実に上げる。
多額の資金を市場に投入して、コメの安いときには買い入れをおこない、コメが不足するときには高値で売り払うのです。
すべてのものが思い通りに光る。このときの富子には、その目に写るなにもかもを面白いほどに見抜くことが出来たのです。
当時の経済発展の方向性を的確に把握し、それに敏感に反応しながら対応していく。
時代の流れを読む先見性と、抜群の経済センスに裏付けされた富子の経済政策は見事に幕府を復興させていくのです。
民意というもの
では、何故に富子は公家や僧侶から徹底的に嫌われ、希代の悪女というイメージが後世にまでつきまとうことになったのでしょうか。
いや、実は嫌悪感をもたれていたのは僧侶や公家だけではなく、洛中の町衆と呼ばれる富裕層や一般庶民、農民からも、かなり疎んじられていたのです。
本来、京への入場料である関所の通行費は、御所の修繕費や神社の祭礼費用に充てられなければならないものなのです。
神社の祭りは、庶民にとっては唯一の楽しみでもあり、辛い日々から解放される大切なものなので、キチンと開催されなければならないのです。
悪政への不満を和らげるものでもあるので、為政者としては、民意を確保するために無視できないものであるはずです。
富子は御所の修繕費には対応したものの、公家が頼りにする禁中の行事費用や、神社の祭礼費用に対しては資金を全く手当てしなかったのです。
公家や庶民のことなど意識下になかった。つまり、どうでもよかったんですね。
そして、これを恨んだ公家たちによって、富子がおこなったある許されない事実が広く民衆たちに暴露されることになります。
それは、応仁の乱の戦時中に、戦費に困る大名たちに富子が積極的に高い金利で費用を貸し付けていたことです。
極めつけは、首謀者であった畠山義成に一千貫文もの資金を提供していたことが分かり、多くの人々が怒りに震えたのです。
本来ならば、幕府側の人間であるのだから、必死になって戦争終結のために努力しなければならないはずです。
大名たちが戦争の費用に困っているなら、絶妙のタイミングです。貸し付けなければ大名たちは戦争を続けられないのです。
それを、高金利で貸し付けるとは何事なのか。日本国民すべての人たちに、反感と憎悪を富子は抱かれることになるんですね。
義政の憂鬱
義政が生涯で本当に心を許した人は、前述した、切腹し果てた側室の今参局、ただ一人だったそうです。
この今参局は年齢は不詳なのですが、義政よりも十歳以上は年長だったことだけは確かなので、いまでいえば、中学生に20代後半の女性が添うようなものだったんですね。
二人の間には子がふたり授かりましたが、ふたりとも女の子であったので、後継ぎ問題には全く関与しなかったのです。
そんな幸せな日々をおくる義政が二十歳になったときに、二人の間に大きな邪魔者が入ってくることになります。
そう、日野富子がやってきたのです。甘えてはいけない、将軍たるもの、然るべき家柄の娘を正式な御台所としなければならないのです。
そしてここから、義政の苦悩と憂鬱の日々は果てしなく続いていくのでした。