桂昌院  遠くへ 西陣のお玉は江戸で将軍の母になった

江戸幕府第五代将軍 徳川綱吉

徳川綱吉の母・桂昌院は、ある悩みを抱えていたことで祈祷に通いつめていました。

息子の綱吉に後継ぎができないこと、つまり孫が授からないのは、自身の信仰が全然足りないからだと苦悩していたのです。

もともと信仰心の篤かった彼女は祈祷にますます熱中し、真言宗の僧侶の教えを恃みとすることになります。

ですが、そんな彼女の願いが叶うことはありませんでした。

綱吉の亡くなった兄・綱重の子である綱豊(家宣)に徳川六代将軍の座は引き継がれてしまったのです。

f:id:kouhei-s:20210309002048j:plain

 

徳川綱吉は為政を行っていた期間に、46家の大名を改易もしくは減封して、1300人の旗本・御家人を処罰しました。

尋常ではないこのパワハラ行為があまりにも理不尽だったために、家臣を何だと思っているんだと、桂昌院は体を震わせて憤り息子に忠言していたといいます。

西陣のお玉さん

桂昌院の幼名はお玉といい、寛永4(1627)年、京都西陣の八百屋に生まれました。

実家は今宮神社の氏子でした。今宮神社は現在では、お玉とのつながりで、別名「玉の輿神社」と呼ばれています。

父親の仁左衛門が早くに他界し、しばらくして、母は幼いお玉とその姉を連れて、二条家の家司と再婚しました。

そのご縁で、二条家と懇意にしていた六条家の息女に、お玉は仕えることになります。

やがて時は流れ、その息女が三代将軍の家光の側室となったとき、付き添いとしてお玉も江戸城に入るのですが、家光は息女よりもお玉をたいそう気に入り、その日から彼女に心奪われることになるのです。

f:id:kouhei-s:20210309200127j:plain

人はそれを玉の輿とよんだ

正保3(1646)年、家光の血を継いだ徳松君をお玉は出産しました。

徳松君は元服すると綱吉と名を改め、二十五万石を持つ上州舘林藩主になっています。

そして、運命のいたずらなのか、桂昌院と息子・綱吉の強運はこれで終わることはなかった。

時が流れ、家光が亡くなると、第四代将軍となっていた長兄・家綱も次男・綱重も立て続けに帰らぬ人となり、ここに、思いがけず三男の一大名でしかなかった綱吉による第五代将軍が誕生したのです。

京都西陣で生まれたお玉は、江戸で家光にみそめられ、綱吉の母・桂昌院になった。そう、玉の輿に乗ったのでした。

怒涛の恩返し

f:id:kouhei-s:20210309200405j:plain

玉の輿に乗れればそれで人生のすべてが満たされ、過去には何もなかったように新しい暮らしがはじまるのでしょうか。

もちろん、そうではなかったでしょう。おそらく、はたから見ただけではわからない、長い嵐のような苦悩が彼女の胸の中にあったはずです。

ですが、「私の人生は、なによりも神仏、第一に神仏へのご信心」と、彼女の心は揺るぎませんでした。

そして根っこにあったのは、遠く離れていても決して忘れない、自分を育くんでくれた京都という町への深い感謝の思い、父と母、家族への思い。

京都中の寺社に対する桂昌院の怒涛の資金提供はとどまることはありませんでした。

さらに、大量の西陣織の織物を生涯を通じて定期的に買い続けていたのです。

彼女が再興させたという京都の寺社仏閣は、西山エリアの金蔵寺や善峯寺、嵐山の法輪寺と清凉寺、槙尾の西明寺、東山の南禅寺、そして、ゆかりの深かった今宮神社など枚挙にいとまがありません。

京都観光にお出かけになれば、そこらじゅうの寺院で、桂昌院という名を耳にされることになるでしょう。