室町幕府 崩壊のきざし  それは下剋上のはじまり

突然の出来事

長享3(1489)年、室町幕府第9代将軍・義尚(よしひさ)は、弱冠25歳の身でありながら、近江の陣中で戦死しました。

この予期せぬ事態により足利将軍の座が空白になったので、隠居の身でありながらも大殿の立場にあった義尚の父・義政は、急遽、美濃国にいた弟の義視(よしみ)を京に呼び戻します。

応仁の乱で西軍の大将格だった義視は、敗戦の責任を取らされ追いつめられて、美濃の斯波氏に保護される形で亡命していたんですね。

負け組となってしまった彼は、もう、京の町に戻れることはないだろうと覚悟していたのですが、義尚の突然の死という事態に奇跡的な復活を遂げることになるのです。

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ただ、復活といっても、義視が将軍になれるわけではありませんでした。

義視にとって戦死した義尚は甥にあたるので、甥の後継ぎとして叔父が将軍になることになり、それを受け入れることを幕府は出来なかったからです。

こういった前例はこれまでなかったのと、こういう事例を当時は非常に嫌ったんですね。

ですが、義視には、24歳になる義材(よしき)という立派な後継ぎがいたので、次期将軍は彼に任されることになります。

義視にとっても将軍の父親という存在になるのですから、亡命していた身からすれば、充分すぎる待遇を受けることになるのです。

第10代将軍 足利義稙

このあと、息子の早すぎる死に憔悴していた、もうひとりの権力者である義政は、翌年、義尚の後を追うようにこの世を去ります。

名実ともに新しき指導者となった義材は義稙(よしたね)と改名し、ここに、第10代将軍・足利義稙の新政権がはじまることになりました。

手始めに義稙は、亡くなった9代将軍・義尚の意思を引き継ぐかのように、近江の六角高頼を追討します。

高頼を捕らえることは出来なかったものの、高頼軍を破滅的状態まで追い込んだことで、絶大な家臣たちの信頼を得ることが出来ました。

そしてつぎに、義稙の征伐対象に選ばれたのは、幕府に反旗を翻し河内国を実効支配していた畠山義就(よしなり)でした。

もともと、この河内辺りは畠山氏の支援地盤なのですが、畠山義就が守護として正当に支配権を持っていたわけではありません。

応仁の乱で敗戦したのは西軍です。その西軍に属していた畠山氏の公職はすべて剥奪されていたので、義就にはなんの資格も、官職も持ち合わせていなかったのです。

いわば、勝手に義就が独立支配していただけなので、義稙ひきいる幕府軍は、いつかこれを、徹底的に叩き潰さなければなりませんでした。

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延徳4(1490)年になると、その「河内独立国」では義就がこの世を去り、代が変わって基家(もといえ)が後を継ぎます。

このあとすぐに、貴様らもう許さんぞと、義稙はかってない大軍を動員して、ついに河内へと向かいます。

幕府軍に執拗に攻撃された基家軍は、たまらず最後の城である高屋城に籠城するしかもう残された手がありません。

援軍が期待できないのに籠城する基家軍はもはや風前の灯火でした。義稙は、ついに反乱軍を鎮圧する手筈を整えることができたのです。

謀反の首謀者

ところがです、高屋城を包囲していた幕府軍の守護たちが、ひとり、またひとりと軍勢を連れて、京や堺へと引き返して行くのです。

これは、いったい何が起こったのでしょうか。ついに残されたのは、将軍・義稙と畠山政長(幕府がわの畠山氏)の手勢だけになってしまいます。

そう、総出の出陣のために、政権の主要人物が誰もいなくなった京都でクーデターが起きたのです。

謀反の首謀者は、事実上の幕府の副将軍になる管領の細川政元(まさもと)でした。

政元が神輿として担ぎ上げたのは、足利政知(まさとも)の次男で京にいた足利清晃(せいこう)です。

足利政知は、将軍・義政と義視の異母兄にあたるので、息子の清晃は、9代・義尚、10代・義稙のいとこ、ということになります。

* いろんな足利氏の名前や、(まさもと)と(まさとも)が出てきたりして、少し混乱されているかも知れません。

ただ、ここを乗り越えて頂ければ、あまり歴史に出てこない8代将軍・義政以降の室町幕府が理解しやすくなりますので、お付き合いの程お願い致します。

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残された義稙と畠山政長は、ともに正覚寺城に逃げ込みますが、ほんの数日で落城し、畠山政長は切腹して果てました。

義稙は捕らわれの身となり、龍安寺に幽閉されることになります。

その後、政元の手から脱れた義稙は越中から越前、そして周防へと、諸国を放浪しながら復権のときを密かに待ち続けたのです。

そして、政元の手によって将軍に推された清晃は、義澄(よしずみ)と名を変え、ここに足利幕府第11代将軍が誕生しました。

細川政元のクーデターが衝撃的だったのは、たとえ管領であったにせよ、いち守護大名が将軍の廃立を決定させたということが大問題だったからです。

言い方を変えれば、将軍家の権威がそこまで没落してしまったという事実が、世にあぶりだされたことを示しているのです。

政元のクーデターの情報を聞いた守護たちがあっさりと高屋城の包囲から離れたのも、将軍家の統治権がすでに、かなり不甲斐ないものになっていたからなのでしょう。

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ところが、第11代将軍・義澄の政局が始まると、今度は、皮肉なことに細川家で内紛が起こります。

独身で子のなかった政元は、家督を継がせようとして、澄元(すみもと)という男子を阿波細川家から呼びよせています。

ですが、もうすでに、澄之(すみゆき)という将軍家の親戚筋である養子を、政元は引き取ったばかりだったのです。

なぜ、一家が揉めることになるのが分かっていながら、立て続けに二人も養子をとったのでしょうか。

じつは、先に養子にした澄之には、細川家の血が入っていないことが後になってわかり、そのため家臣たちに猛反対され、不満を訴えられることになったのです。

だから、政元は、新しい養子として血縁から澄元を呼び寄せるしかなかったんですね。

結局、澄元派と澄之派に細川家は分裂することになり、相続問題を絡めた対立を導くことになります。

事態は複雑にねじれて、澄之と手を組んだ薬師寺長忠、香西元長といういわば身内の手下のものたちに、政元は暗殺されてしまうことになったんですね。

まさに、過去に自分自身が将軍家に仕掛けた卑劣な謀反の行為が、ブーメランになって飛んで戻ってきたということなのでしょう。

奇跡のカムバック

諸国を放浪していた義稙は、この京都の混乱を聞きつけ、周防守護の大内義興、細川高国の協力を得て、復讐をはたすためについに入京します。

今度は、義稙に追い詰められた将軍・義澄が、義稙の入京一週間後には近江に逃走することになるのです。

そう、ここに、義稙はみごと将軍職に復帰し、この後、13年ほど政権を維持しました。

各地を放浪していたために「流れ公方」と義稙は嘲笑されていましたが、この復讐劇によって、京童たちに「しぶとい、やっちゃな~」と評判になるほどの奇跡的なカムバックを果たしたのです。