西園寺家と日野名子  ふたりの明日

西園寺家をよろしく頼むべし

西園寺公経(さいおんじ きんつね)を事実上のルーツとする京都・西園寺家と、鎌倉・北条家のつながりは密接でした。

承久3(1221)年、武家政権から実権を取り返すために後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱。

なんと、太政大臣の西園寺公経は後鳥羽院に就かず、鎌倉幕府に味方したのです。

公経の密通によって、朝廷側の内部情報が北条家たち御家人連合に筒抜けだったということが、幕府軍の勝利に大きく貢献することになりました。

朝廷と幕府の連絡交渉係である関東申次という役職を務めていた公経は、北条義時と会談する機会も多く、妙に気が合ったといいます。

子孫七代にわたって西園寺家をよろしく頼むべし、それが北条義時の遺言でした。

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微笑みのひと

時はながれ、元徳元(1329)年のころ、都に中流貴族・日野資名の娘に名子(めいし)という女性がいました。

宮廷の文書係として、後伏見院、さらに光厳天皇につかえることになります。

名子は女房仲間たちから親しまれる人気者でしたが、男性にはあまり慣れていなくて、すこし恥ずかしがり屋で引っ込み思案でした。

でも彼女がそこにいて微笑んでいると、まわりは華やかになったのです。

そんな宮廷生活のなかで、公卿・西園寺公宗(きんむね)と名子は出会います。

その壊れそうで繊細な心を、そっと、包み込むように公宗は彼女に接していました。

穏やかな日々、なにげない毎日がつづくなか、いつしか二人は惹かれあうようになっていきます。

月のある夜、公宗に手を引かれ内裏を抜け出した名子は彼に身をまかせ、ともに夜を明かします。

名子が、そのとき耳にした鳥の声、鐘の音、そのとき目にした暁の空、峰の横雲。

一度しかない命なら、結ばれるひとも、ただ一人。

彼女にとって、生涯忘れることのない思い出となりました。

そして公宗は名子を正式に正室に迎え、西園寺家の広大な別荘である北山第(のちの金閣寺)で祝宴をあげたのです。

しかし、このころ歴史は複雑に、かつ激しく動き始めていました。

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後醍醐の復活

正慶2(1333)年、大覚寺統の後醍醐が幽閉されていた隠岐島をついに脱出し、赤松則村、楠木正成たちを従え挙兵します。

日野資名・房光・氏光たち日野一族と北条仲時たちは、光厳天皇、上皇を、炎上する六波羅探題から救出し、近江の守山へ向かっています。

しかし、近江での番場の合戦で北条仲時は戦死し、光厳天皇、上皇は伊吹山太平護国寺に幽閉されてしまったのです。

後醍醐は光厳天皇、つまり北朝を廃して自らを重祚せしめると、年号を元弘にもどしました。

このとき、後醍醐配下の新田義貞軍によって鎌倉は滅ばされましたが、自刃して果てた執権・北条高時の弟である泰家は陸奥国へと落ち延びます。

そう、西園寺公宗が立ち上がるその日まで、奥州の片隅で身を潜めていたのです。

公宗自身は京都から後醍醐天皇を狙い、泰家から諸国の北条氏の残党たちに反旗の号令を出させて、天下を覆す計画だったのです。

ですが、この計画を密告するものが西園寺家から出てしまうことになります。

それは、後醍醐天皇から信任の厚かった公宗の弟である公重(きんしげ)でした。

怒りを抑えられない後醍醐天皇は、即座に中院定平、名和長年たちに謀叛人の逮捕を命じます。

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南朝軍およそ2千騎余りが公宗のいる北山第を囲みます。

ここで起こったことは、現在、金閣寺のある場所で実際にあったことなんですね。

泣き崩れる名子はこのとき身籠っていました。

公宗は「私はここに沈むことになるけれど、君には指一本触れさせはしない」と、名子に静かに語りかけ、生まれてくる子供にと、西園寺家に伝わる琵琶の秘曲の譜が入ったお守り袋を手渡しました。

そして、名子を庭の垣根の死角場所へと押し込み、隠しました。その直後、中院定平たちがドカドカと屋敷に踏み込んできます。

有無を言わさず数人が腰の刀を抜いて公宗に切りかかりました。そばに隠れている名子は直視することができません。

名子は胸が張り裂けそうになり、叫びだそうとするその声を抑えるために、震える両手で口元を必死で押さえながら血の涙を泣きました。

新たな希望 実俊

西園寺家、北山第を引き継ぎ権力を手にしたのは弟の公重でした。「兄者も時勢を見る目がないのう」と、薄く笑っていたのです。

そのころ名子は、仁和寺近くの小さな長屋で親切な村人たちに囲まれ、無事、男の子を出産しました。

しばらくして、実俊(さねとし)と名付けられた公宗にそっくりなその男の子が3歳になったとき、世の中がまたひっくり返ります。

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建武の乱、足利尊氏が建武政権に反旗を翻したのです。後醍醐天皇の新政が武士階級の権益を守ることではないことに尊氏は気づいたからです。

もともと尊氏は、新しい幕府の開設という野望なんかは抱いてなかった。でも、誰かが武士社会を束ねていかなければならないのです。

室町幕府が成立し、西園寺家の家督問題に尊氏はズカズカと介入します。

そして、うなだれる公重を睨みつけ、こう言い放ちました。

「実俊が成長したら家紋を移譲しろ。わかったか、この野郎」