こうへいブログ  京都案内 そして スラスラと流れるような文章が書けるようになりたくて

京都観光案内 その裏に隠された物語のご紹介と、それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

智積院  根来寺の炎上から  少しでも前へ 

成田不動で有名な「成田山新勝寺」、初詣の人々で賑わう「川崎大師平間寺」、日帰り登山の聖地、高尾山「薬王院」。

いずれも関東屈指の大寺院ですが、この三つの名刹は新義真言宗・智山派に所属し、宗団の東日本における拠点となっています。

そして、それらを束ねるのが京都・東山七条にある智山派総本山・智積院(ちしゃくいん)であり、末寺は全国で3000を数え、約30万人の檀信徒を抱えます。

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水の部屋と隠れた紅葉の名所

じつは京都市民でも、その存在を知らない人もけっこういるお寺で、あの成田不動や川崎大師の総元だなんて、ほとんど知られていません。

でも、その大書院から眺める池泉庭園は、軒先に水を引き込む仕様になっていて、それは水の部屋にいるような庭園、そう、まるであの平安時代の寝殿造りといわれる貴族邸宅の庭園にいるような雰囲気なのです。

京都には禅宗の枯山水庭園が多いので、この雰囲気の庭園はなかなか他には見ることが出来ないのではないでしょうか。

さらに境内には、前身の祥雲寺から引き継がれた国宝・長谷川等伯一派・金碧障壁画を納める収蔵庫もあり、まさに、見どころ溢れる観光寺院でもあるんですね。

そして、これは他言しないでほしいのですが、石畳を埋め尽くす落ち葉のパレットが見られる紅葉の時期の智積院は本当に素晴らしいのです。

ただ、境内があまりにも広くて、お寺の外から、つまり東山大通りからは寺内の様子が見えないので、このことも、地元住民を除いてあまり知られていません。

総門から奥へと入っていくと、「え、なんだこれは凄いなぁ」と、そこではじめて驚く感じです。

だから、知ってる人たちだけで楽しむために、このことは、絶対に人に言わないでください(笑)

わずか一日で

紀州根来をルーツとする智積院の始まりは、寺領70万石といわれ、一大寺院となった根来寺にあります。

室町時代末期、学僧のほかに、行人といわれた寺務などに携わる人々が根来寺には大勢住んでいましたが、なにしろ戦国時代のことです、自衛の必然性から武装するしかなかったので、いつしか根来衆(ねごろしゅう)と彼らは呼ばれるようになったんですね。

もともとの組織が大規模だったために、その軍事力は飛躍的に勢力拡大し、桃山時代には豊臣秀吉に危険視されることになります。

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天正13(1585)年、秀吉による圧倒的攻撃、その怒涛の紀州攻めにより根来寺は炎上し、わずか一日でこの世から姿を消しました。

もともと根来寺は大きく二つのグループに分かれていたので、リーダーとして先導する二人の能化(指導者)がいました。

壊滅したあと、ふたつの派閥がどうなったかというと、ひとりは専誉(せんよ)という能化だったのですが、彼は、不遇を同情した豊臣秀長の庇護を受けて大和・長谷寺で現在の新義真言宗・豊山派を復興させます。

ですが、もうひとりの能化は、醍醐寺、神護寺などを、ただの客分として転々とする16年におよぶ流浪の日々を送らなければなりませんでした。

決して、許しはしない

もうひとりの能化、新義真言宗・智山派、その名は玄宥(げんゆう)。秀吉を徹底的に敵対視して、とことんまで抗った気骨の名僧でした。

この頃、根来衆のほかに紀州には雑賀衆という一大勢力があったのですが、これは、本願寺をいただく浄土真宗の門徒集団です。

互いに異なった思想を持つ大規模なふたつの宗団は、当然のことながら敵対関係にありました。

それがどういうことでしょう、秀吉という共通の怨敵の存在によって、ここに、根来衆と雑賀衆は宗派の違いを超え、紀州勢一丸となって秀吉に対抗することになります。

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さらに、天正12(1584)年、小牧、長久手の合戦の際、根来衆は家康方に加勢し、秀吉方の岸和田城をともに攻撃せしめたのです。

これらは全て玄宥が先頭に立って戦略を企て実行したことであり、秀吉もそれを重々承知していました。

玄宥だけは決してゆるさない。己のすべてのチカラをもって奴をこの世から抹殺する。秀吉の怨念には凄まじいものがあったのです。

そして、家康との講和が成立した翌年の天正13年3月、秀吉は10万の兵力をもって紀州・根来を襲撃し、わずか一日で壊滅させたのでした。

長い間

慶長5(1600)年11月、京都・洛北北野で小さく細々と教学を論じていた玄宥のもとへ、関ケ原の合戦に勝利にした徳川家康が訪れました。

「長い間、苦労をおかけしました。万全の準備が整いましたのでお迎えにまいりました」

学識高い玄宥の、その論議を目の当たりにし、それ以降から玄宥に帰依していた家康は、その眼を潤ませながら迎えにきたのです。

豊国社の社殿修理料1万石のうちから200石が家康により玄宥に寄付されたので、ここから彼は上下2か寺を新たに建立して、上寺を学徒が住む坊舎に、下寺を講堂としました。

この約束された場所を「五百仏山根来寺智積山」と号した玄宥は、根来襲撃後16年間の苦難の末に、ついに、悲願の智積院再興を成し遂げたのです。

そして、1615年に豊臣家が完全に消滅すると、秀吉の遺児である棄丸(すてまる)の菩提寺であり、贅を尽くされたその堂宇を持つ祥雲寺(豊国社境内)も、家康によって智積院に寄進されることになります。

ここに、江戸時代の盛期には、1300名もの学徒が教学に励んでいたといいます。つまり、智積院とは真言密教のみならず仏教教学の一大研究施設なのです。

現在も、山内の智山専修学院では、僧侶になるために日夜修業に励む若き学徒たちを、彼らの明日のために全力でフォローしています。

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天下人に帰依されるほどの人物。なのに、長い月日の間、理不尽な目に遭い続けた。その玄宥を支えたものとは、いったいなんだったのでしょうか。

たいした仕事や勉学じゃなくてもべつにいい。ほんの小さなことでも、趣味でもボランティアでもなんでもいい。当然、年齢なんかは関係ない。

昨日よりも、一歩でも前に進んでいるという自覚を持つことが出来るなら、きっと、人は簡単に倒れたりはしないのでしょう。