細川ガラシャ  山城の花嫁 その美麗比喩なく

天正6年8月、明智光秀の三女・玉は、勝竜寺城に居城する細川忠興のもとへと嫁ぎました。

父と暮らしていた近江・坂本城から、かごに揺られながら比叡山を超え、山城国へとやってきたのです。

城下町にやってきた花嫁は、「容顔の美麗比喩なく」と、あっという間に町中の評判になりました。

夫婦ともに、この時16歳。玉が街を歩くとみな振り返り、小さな女の子たちは彼女を見つけると、そばへ駆け寄っていきます。

彼女の蜜のような幸せな日々は続き、結婚3年目には長男が生まれます。

そして、若き武将として頭角を現す夫の忠興は、信長の絶対的な信頼を受けて、今度は、丹後12万石を与えられました。

まさにこの時、ふたりにとって何ひとつ欠けるものはなかったのです。山城の全ての人たちから、時代を超えて祝福されるように。

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細川家の選択

ですが突然、一夜のうちにこれらすべてのことを、こなごなに砕いてしまう歴史的事件が起こりました。

玉の父である明智光秀が、主君、織田信長を討つために、一万三千の兵を率いて本能寺を襲撃したのです。

光秀謀反、信長自害の知らせは、翌日には、丹後の城に転居していた細川家に届きます。

息を切らしながら飛び込むように文を差し出すふたりの飛脚が、ほとんど同時に訪れました。

ひとりは、信長側の京よりの使者。そしてもうひとりは、味方を頼む光秀からの使者です。

縁者であるのに何故即座に動いてくれないのだと、憤りを隠せない光秀からの書状は何度も細川家に届いたといいます。

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この時の書状に天正10年6月9日付のものがあり、現在も残されています。

よく噂された黒幕説、いわゆる朝廷や将軍・足利義昭の命令で信長を襲撃したとは、一言も言及されていませんでした。

ですので、光秀の単独による「謀反」であると判断した細川家は決して動かなかったのです。

もし、朝廷や義昭の指示が光秀にあったのなら、「錦の御旗」という大義名分に細川家は光秀を助けたのかもしれません。

そして、細川家は助けなかっただけではなく、逆に丹波の明智側の支城2ヶ所を攻め落とし、さらに、毛利から引き返してきた豊臣秀吉軍に援軍を合流させています。

問題は玉の処遇でした。「天下の逆賊」の子である玉をそのままにしておくことは、細川家が疑われることを意味します。

忠興は「何も心配することはないさ。露と消えるときは家族みんな一緒だから」と、玉に言い聞かせました。

それから、形だけ離縁を言い渡し、ほとぼりがさめるまで、忠興はしばらく安全な場所に玉を保護することにしたのです。

侍女と屈強な護衛にそれぞれ一人づつ付き添きそわれ、玉は明智家の茶園があった丹波山中の村に身をひそめることになりました。

探しあてたもの

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時は流れ、光秀を倒し信長の仇をとった天下人・秀吉の取りなしにより、天正12年3月、玉は丹波を出て大坂・玉造にある細川家の新邸に入りました。

指折り数え待ち続けていた忠興の喜びは尋常ではなく、細川家に笑顔とはしゃぐ声が戻りました。

ですが、玉の顔色はさえませんでした。父の突然の反逆によるトラウマや、慣れない山中生活によるストレスにより、少し鬱状態となっていたのです。

玉の苦悩を和らげようと忠興はあらゆる手を尽くしました。忠興の優しさにつつまれ、環境が変わったこともあって、玉は少しずつですが回復していきます。

そんな時、忠興の友人であるキリシタン大名の高山右近が頻繁に細川家を訪れるようになります。

そして右近は玉にキリストの教えの素晴らしさを熱心に説くようになり、玉は寝食を忘れ信仰にのめり込むようになりました。

でもこの後、夢中で転がりやっと掴んだものを、その大切な支えを引き裂かれるような苦しみが彼女に降りかかります。

ガラシャ夫人の誕生

天正15年6月、秀吉により突然の、「禁教令」が出されました。

この頃には魔王となっていた秀吉が、キリシタンたちにどんな酷い仕打ちをしたのかは、ここでは触れないでおきましょう。

フランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリスト教。

信長の保護を得たこの異国の教えは急速に信者を集め、現在の京都の街にもさまざまな足跡を残しているのです。

信長が本能寺で討たれる前後のころには、キリシタンの総数は15万から20万人になっていたといいます。それは、当時の人口のほぼ1パーセントにあたるんですね。

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そして、秀吉の禁教令が出され弾圧が吹き荒れる都。

表立って教会を訪れ、洗礼を授かることの出来なかった玉は、まず侍女のマリアに神父から洗礼の方式を学ばさせて、自分はそのマリアからひそかに邸内で洗礼を受けました。

ここに、ガラシャ夫人が誕生したのです。

どこで洗礼を受けるかだけが重要なのではない。答えはすべて、この胸の中にある。

逃れられない闇と、光につつまれた世界。それすらも、自由自在に行き来できる心境にガラシャはたどり着いたのです。

慶長5年、関ケ原の合戦前夜、西軍・石田三成の人質となることを断固として拒否したガラシャは、大坂の屋敷で家臣に胸を突かせ、帰らぬ人となりました。屋敷も跡形もなく燃え尽きたのです。

東軍・徳川家康に従っていた忠興は大坂に凱旋し、キリシタンによる壮麗な葬儀を営なみ、空へと帰った妻の38年の生涯を見送りました。