名所・史跡
なぜ薩摩と長州だったのか 関ケ原の戦い以来、260年も続いた徳川幕府が倒されてしまった最大の理由とはいったい何だったのでしょうか。 それは、もともと仮想敵国である薩摩や長州の「自由に京に入り」「自由に公家と交際する」という権利を幕府が黙認し…
時の流れ 治暦4(1068)年、藤原摂関家と外戚関係を持たない後三条天皇が帝位についたのは35歳のときでした。 「えも知れぬ重圧を感じるのは、関白摂政が天皇の外祖父であるからのことで、私とは全く無縁のことだ」と、この時、後三条帝は周りに豪語…
院政 平安時代、白河上皇に「天下の三不如意(ふによい)」という有名なエピソードがあります。 賀茂川の氾濫、双六の目、延暦寺の僧兵、この三つだけは自分の意のままに、思い通りには、どうしてもすることが出来ないと上皇が嘆いたという話です。 ですがこ…
兄はなぜ怒っているのか 文治元(1185)年、源頼朝の密命を受けた土佐坊昌俊(しょうしゅん)が京へと向かっていました。 目指すその場所は、現在の西本願寺の近くにあった源義経と恋人の静、その二人が住む邸宅です。 このとき義経は、実の兄である頼朝…
はじまりの場所 足利政権のはじまりのときに、どこに幕府を開くのか、鎌倉にするべきか、それとも京都にするべきなのかという議論が繰り返し行われました。 新たな幕府にとって政権の所在地をどこにするのかは、極めて重要なテーマだったからです。 そして、…
月見のためだけに 京都伏見の地にあった幻の城といわれた向島城。 隅田川の近く、むこうじま ではなく、むかいじま と読みます。 豊臣秀吉の別荘として建築されたのですが、秀吉の死後8ヶ月後には徳川家康が城主となりました。 現在の向島地域では城跡を感…
乾いた静かな夜空に、炎がゆらめく五山送り火は、夏の京都の風物詩。 大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形と次々に浮かび上がり、儚く消えていきます。 毎年8月16日に、お盆に帰ってきた先祖の霊を壮大な送り火で見送るこの風習は、洛中に脈々と伝承さ…
西園寺家をよろしく頼むべし 西園寺公経(さいおんじ きんつね)を事実上のルーツとする京都・西園寺家と、鎌倉・北条家のつながりは密接でした。 承久3(1221)年、武家政権から実権を取り返すために後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱。 太政大臣の西園寺…
針葉樹じゃなくて広葉樹 日本の神様は、静かな暗い所がお好きなので、深い緑に包まれた森に鎮座されます。 いちばん好適なのは、スギやヒノキなどの常緑の針葉樹が立ち並ぶ、そんな場所です。 なぜなら、よく茂った樹々の緑葉が陽射しを遮り、うっそうと辺り…
歓喜に沸く豊国大明神臨時祭 慶長3(1598)年、豊臣秀吉は伏見城で他界し、方広寺大仏殿の背後にそびえる阿弥陀ヶ峰に理葬されています。 翌慶長4年には、「豊国大明神」という神号を朝廷から与えられ、正式に神格として祀られました。 これが「豊国神…
東海道中膝栗毛の舞台となった華やかな一面とはうらはらに、三条大橋には数々の悲話が伝わります。 豊臣秀次の妻・側室侍女とその幼児たちが秀吉によって首うちにされたり、橋のすぐ近くの池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士が新撰組に襲撃されたりした、や…
納涼床のはじまり 鴨川が良く見える位置に座席が設置されて、懐石や割烹・京料理を楽しむ、夏の風物詩である納涼床の季節がやってきました。 夕暮れ時に一杯やりながら目に映る、マジックアワーに包まれた鴨川の風景は格別です。納涼床が年中行事化となった…
かよい慣れた道、いつもよりゆっくりと歩く夕暮れの錦通り。 新型コロナのはやりで、本当に人がいないので、なんだか違う景色に見えます。 ここは、普段ならインバウンドの人々で溢れるグルメロードと呼ばれる有名な市場。いまは、人影もまばらです。 その為…
路地裏をせくように歩く舞妓さん 紅殻格子(べんがらごうし)のお茶屋が立ち並ぶ、京都を代表する花街。軒下の提灯に明かりが灯りはじめる夕方になると、舞子さんが通りの角から少しせくように現れます。 そんな情緒を感じられる花見小路あたりが祇園(ぎお…
城下町に集う酒蔵 豊臣秀吉が築城した伏見城によって、伏見地区は天下の巨大な城下町に変貌することとなりました。 そして、そこに集い暮らし始めた人々によって、伏見の酒の需要は一気に増大します。 もともと、この地は名水が湧き出る場所でもあったので、…
道幅3メートルほどの両側に、京野菜や川魚・湯葉・漬け物など、京都ならではの食品を扱う店が並ぶ「京の台所」と呼ばれる錦市場。 いまでは小売りだけではなく、店舗の一部を改装するなどして、自前の食材がその場で食べられるお店が増えてきています。買い…
東本願寺の飛地境内地にある仏寺庭園 平安時代初期、9世紀の終わり頃でしょうか、嵯峨天皇の皇子であり左大臣でもあった源融が建造した六条河原院という静かな別荘地がありました。 渉成園はその苑池の遺跡と伝えられていて、承応2(1653)年、本願寺…
利休が造った茶室 主君・織田信長の仇うちのために明智光秀を滅ぼした豊臣秀吉は、乱世を制して天下布武を実現しました。 その復讐の舞台となった天王山を抱く山崎の地、そこにたたずんでいるのが古刹・妙喜庵(みょうきあん)です。 そう、この山崎の合戦後…
王朝趣味の本質に合致した景観 それは鎌倉時代のこと。 後嵯峨上皇が仙洞亀山御所を造営するとき、大量に移植したのが、吉野の山桜の苗木でした。 その桜が満開になったとき、一陣のつむじ風が吹き、花びらが嵐のように飛び散ります。 その様を見た上皇は、…
鴨川の西を流れる高瀬川には、桜並木や風にゆれる柳がよく似合います。高瀬川が流れる木屋町通りの三条から四条までの間は京都有数の歓楽街です。 ネオンサインが灯るBarから窓を開けると、下には高瀬川が流れていて、夜風が頬に少し冷たくいい気分です。 喧…
芭蕉が記録した嵯峨野 嵯峨野の里にある茅葺の小さな庵、落柿舎。それは、松尾芭蕉の古くからの高弟である向井去来(きょらい)の別荘でした。 紀行文『奥のほそ道』で有名な江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉は、1689年にはじめて落柿舎を訪れ、その2年後、…
京都を復興させるための壮大な事業計画 明治維新により都が東京に遷り、京都の中心部は人口が激減しました。 京都市民は精神面と経済面で動揺します。明治18年、京都の街を復興させるべく計画されたのが琵琶湖疏水運河の開通だったのです。 東山連峰をトン…
宇治橋・三の間 宇治橋には、三の間とよばれる上流に向かって少しせり出した空間があります。 橋の西詰から三つ目の柱の間にあることから三の間と名付けられました。 足下には宇治川が流れこんできて、上流に目をやると、槙尾山と朝日山にはさまれた狭い川幅…
天下三不如意 平家物語の巻一に天下三不如意という逸話があります。 絶大な権力を持った白河法皇が、「かも川の水 双六の賽(サイコロの目) 山法師(延暦寺の僧) 是ぞ わが心にかなわぬもの」と嘆いたというのです。 それくらい鴨川の水は何度も氾濫し、大…