乾いた静かな夜空に、炎がゆらめく五山送り火は、夏の京都の風物詩。
大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形と次々に浮かび上がり、儚く消えていきます。
毎年8月16日に、お盆に帰ってきた先祖の霊を壮大な送り火で見送るこの風習は、洛中に脈々と伝承されてきました。
ですが昨年に続き、今年もコロナの影響により規模が縮小され開催されます。
コロナ前とは違って少しの点火ではありますが、夜空を照らす炎がご先祖を西方浄土へとお送りするのでしょう。
アカマツの割り木
通常開催だと20時に、銀閣寺裏の東山にある大文字山から点火が始まり、反時計回りで北山から西山へと五つの山に5分おきに点火されます。
ひとつの山に火がともっているのは15分程度なので、車を走らせ追いかけても全てを見ることは出来ません(笑)
どこか一ヶ所に見学場所を決めて、赤々と燃え盛る炎を見送りながら、静かに思いをはせたいものですね。
点火に使用されるアカマツの木材は、たとえば大文字の場合だと、20本ほどの丸太が使用されます。
大きな丸太をまず50センチづつに切り分け、またそれぞれを細かい割り木にしていきます。
割り木は30本を一束にしたものが少なくとも300束は必要で、これらは念入りに乾燥させられてなければなりません。
そして割り木はアカマツでなければいけません。なぜならクロマツでは油分が少ないので燃えにくく、スギだと着火が良すぎて山火事を起こす危険があるからです。
その条件にうまく合うアカマツも、柔軟な素材として家具などにも重宝されているために、需要が今では非常に高くなってきています。
大文字保存会では割り木の確保に苦心されながらも、貴重なアカマツの植栽や生育環境の整備を徹底されているんですね。
大文字山
五山送り火の起源についてはさまざな説があります。
平安時代初期に空海が始めたという説、室町時代中期の八代将軍・足利義政が起源だという説、もっと後の時代、寛永の三筆と名高い近衛信伊の発案だという説など諸説あります。
ただ近年では、明治初期の廃仏毀釈で領地を没収されるまで、大文字山が銀閣寺(慈照寺)の寺領であったという史料が発見されたために、送り火の発案・企画を始めたのは義政なのだという説が事実濃厚になってきたのです。
先に説明した五山送り火の最初の点火場所であり、もっとも重要な意味をもつのが大文字山なんですね。
義政にとってただ一人の息子であった足利幕府九代将軍・義尚(よしひさ)は活発で勝気な若武者でした。
文明5(1473)年、わずか9歳のときに将軍職を継いだ義尚は、幕府の衰退をその身を持ってかみしめていました。
このままではダメだ、落ちた将軍の威厳を取り戻さなければと、焦る義尚はこんな状況にした父・義政を内心では軽蔑していたのです。
父の悪口ばかりを口にする母の富子の影響も少なからずあったのでしょう。
長享元(1487)年、近江の六角高頼を討った義尚は守護大名たちの信頼を徐々に獲得していきます。
自分の意見を全く聞かない息子ではありましたが、日々逞しく成長していくその姿に義政は喜びを感じていました。
たった一人の息子なのです、どんなに生意気でも可愛くないはずがありません。常に彼の身を案じていたのです。
義政の思い
しばらくして、再び近江へと出陣する前に父の顔が見たくなった義尚は、東山殿に住んでいる義政のもとをふいに訪れました。
「なんだ、久しぶりに来たんじゃないか、もっとゆっくりしていきなさい」引き留める義政に軽く一礼し、義尚は早々と戦場へとむかいます。
そしてこれが、父との今生の別れとなったのです。長享3(1489)年3月、近江の陣中で弱冠25歳の義尚は戦死しました。
その年の新盆を迎えるにあたり義尚の菩提を弔うために、如意ケ岳の山面に白布をもって「大」の字を型どるように、義政は家臣たちに命じました。
慈照寺のなかに建つ東求堂からはるかに山面を望み、白布を目安に字形を定めて火床を掘らせると、お盆の16日に、アカマツの割り木に一斉に点火して義尚の精霊を見送っています。
まさにこれが、大文字の送り火の始まりなのではないでしょうか。
義政の哀しみを映し出すように京の夜空を焦がして燃えさかるその炎は、やがて、儚く消えていったのです。