千本釈迦堂 奇跡の建築  高次とおかめ 君に出会えてよかった

そして本堂だけが残った

有名な観光寺院では、昔からの伽藍群がそのままに、本堂、山門、講堂、塔という全てが揃っているものなのですが、京都のお寺には、町のなかに一部分だけが残されているケースがじつは多いのです。

そして、その残されている一部分とは、ほとんどが本堂のことなんですね。

やはり、一番大切な本尊を祀る本堂から再建されるなど、予算がなくてもとりあえず本堂だけは、という思いがあったからなのでしょう。

f:id:kouhei-s:20210301211843j:plain

でも、本堂だけが創建から一度も罹災することなく、およそ800年前からその姿をとどめた大建築が洛中にあります。

千本釈迦堂の名で親しまれている大報恩寺。相次ぐ戦乱によって本堂以外の建物は悉く焼失しましたが、安貞元(1227)年に建てられた本堂は国宝に指定されています。

お寺のある一帯は西陣というエリアで、応仁の乱のときに西軍側の陣営本部があった、ど真ん中の激戦地区なのでした。

京都三大奇跡の建築

応仁の乱(1467~1477年)の兵火は、京都の重要な文化建築物をほとんど破壊しつくしました。

仏像ならば持って逃げたり、池に避難させるなどの手段がとられたのですが、建物ということになると、持って逃げるわけにもいかないので、どうしようもないのです。

そして、平安時代の貴族社会の象徴であった貴重な本当の意味での寝殿造りの建築物はこのとき全滅しました。

もしも、これら貴族建築が遺されていたら、京都観光は現在とまったく違う景観になっていただろうと言われています。

大規模を誇った寺社仏閣も、皇室や、その時々の為政者と深いつながりのあったところだけが一部再建されているのでしょう。

応仁の乱の兵火をくぐり抜けた、この千本釈迦堂と三十三間堂、平等院鳳凰堂のという京都三大奇跡の建築。それはもう、神霊の加護を受けたとさえいえるのではないでしょうか。

高次の絶望

千本釈迦堂は、かなり低い構成の建物のため、横一列に並んだ柱のシンメトリーが絶妙なバランスで表現されています。

造営を一手に引き受けたのは、天下一の名工、棟梁の飛騨匠守・高次(たかつぐ)です。

めでたい上棟式の日、涙を拭うその手で、御幣の先におかめの面を高次はそっと飾りました。

 

f:id:kouhei-s:20210301212156j:plain

 

上棟式予定の数日前のこと、高次は、ガタガタと足が勝手に震えるのを止めることが出来ませんでした。

柱のなかの一本だけが短いことに気がついたのです。均等な長さでカットされている他の柱は、見事なフォルムにちゃんと仕上げている。

何故こうなったのか、自分でも事情がよく呑み込めない。信徒たちから寄進された貴重な柱一本を切り誤ってしまったのか。

傍らでワイワイ、ガヤガヤと作業する仲間たちの声が、高次にはどこか遠くに聞こえました。

別れまぎわに気づく

異様な雰囲気で帰宅してきた高次に気づいた女房のおかめは、「なんだい、なんだい、しけた顔しちゃってさ」とワケを問いただします。

すると、おかめは高次に「じゃあ、その短いのに合わせて、あとの柱を全部切っちまったらどうなのよ」と素人目線からいいました。

なにげないその意見に、「なるほど、短く切ったあとは、柱上に桝組をのせて調整させればいいのか」と高次は閃くのです。

そして、本堂を見事に完成させた高次が満面の笑みで家に帰り、成功させたことをおかめに報告すると、「よかったね・・・・・ あんたって、わりと男前ね。今ごろ気づいちゃったわ」と、おかめは急におどけて見せたのです。

「なにいってんだよ。それより、上棟式には絶対一緒に来てくれよな」

f:id:kouhei-s:20210301212247j:plain

ですが、こうして夫の危機を救ったおかめさんは、上棟式の前日に自ら命を絶ってしまったのです。

そう、妻の入れ知恵で落成したとわかっては、却って夫に恥をかかせてしまう、一切を隠し通すために自刃してしまったのです。

私たちが敬意を払って合掌するしかない、このおかめさんの尊い思いこそが、何度も襲い掛かかる兵火から本堂を守ってくれたのだと思わずにいられません。