そして本堂だけが残った
有名な観光寺院では、本堂、山門、講堂、塔というように、昔からの伽藍群のそのまま全てが揃って残されています。
ですが、京都のお寺には、町のなかに一部分だけが残されているというケースがじつは多いのです。
そして、その残されている一部分とは、ほとんどが本堂である場合が多いんですね。
やはり、とりあえず一番大切な本尊を祀る本堂だけは、予算がなくても復興を急がなければならなかったからでしょう。
でも、本堂だけが創建から一度も罹災することなく、およそ800年前からその姿をとどめた大建築が洛中にあります。
千本釈迦堂の名で親しまれている大報恩寺。相次ぐ戦乱によって本堂以外の建物は悉く焼失しましたが、安貞元(1227)年に建てられた本堂は国宝に指定されているのです。
そして、お寺のある一帯は西陣というエリアであり、応仁の乱のときに西軍側の陣営本部があったという、まさに激戦地区にあたるんですね。
京都三大奇跡の建築
応仁の乱(1467~1477年)の兵火は、京都の重要な文化建築物をほとんど破壊しつくしました。
仏像ならば持って逃げたり、池に避難させるなどの手段がとられたのですが、建物ということになると、持って逃げるわけにもいかないのでどうしようもないのです。
そして、残されていた平安時代の貴族社会の象徴であった寝殿造りの建築物はこのときことごとく消滅しました。
もしも、これらの貴族建築が遺されていたのなら、京都の景観は現在とまったく違うものになっていただろうと言われています。
大規模を誇った寺社仏閣も、皇室や、その時々の為政者と深いつながりのあったところだけが一部再建されているんですね。
例外的に応仁の乱の兵火をくぐり抜けたこの千本釈迦堂と、同じく洛中に建つ三十三間堂、そして宇治の平等院鳳凰堂。
これらは、奇跡の京都三建築とよばれているのですが、それはもう、神霊の加護を受けたとさえいえるのではないでしょうか。
高次の絶望
千本釈迦堂というのは、かなり低い構成の建物のために、横一列に並んだ柱のシンメトリーが絶妙なバランスで表現されています。
造営を一手に引き受けたのは、天下一の名工、棟梁の飛騨匠守・高次(たかつぐ)でした。
めでたい上棟式の日、高次は涙を拭うその手で、御幣の先におかめの面をそっと飾ります。

これより数日前のこと、高次は、ガタガタと足が勝手に震えるのを止めることが出来ないほどの絶望的心境を抱えていました。
そう、柱のなかの一本だけが短いことに気がついたのです。
均等な長さでカットされているそれ以外の他の柱は、見事なフォルムにちゃんと仕上げている。
何故こうなったのか、自分でも事情がよく呑み込めないのです。信徒たちから寄進された貴重な柱一本を切り誤ってしまったのか。
傍らでワイワイ、ガヤガヤと作業する仲間たちの声が、高次にはどこか遠くに聞こえました。
別れまぎわに気づく
その夜のこと、異様な雰囲気で帰宅してきた高次に気づいた女房のおかめは、「なんだい、なんだい、しけた顔しちゃってさ」とワケを問いただします。
すると、おかめは高次に「じゃあ、その短いのに合わせて、あとの柱を全部切っちまったらどうなのよ」と素人目線からいいました。
なにげないその意見に、「なるほど、短く切ったあとは、柱上に桝組をのせて調整させればいいのか」と高次は閃くのです。
そして、本堂を見事に完成させた高次が満面の笑みで家に帰り、さっそく成功させたことをおかめに報告しました。
それを聞いたおかめは「よかったね・・・・・これで、もう安心ね」と、静かに頷きます。
ですが、こうして夫の危機を救ったおかめは、上棟式の前日に自ら命を絶ってしまったのです。
そう、妻の入れ知恵で落成したとわかっては、却って夫に恥をかかせてしまう、一切を隠し通すために自刃してしまったのです。
私たちが敬意を払って合掌するしかない、このおかめの尊い思いこそが、何度も襲い掛かかる兵火から本堂を守ってくれたのだと思わずにいられません。