北野天満宮  道真の怨霊 稲光が走り雷鳴がとどろく

平安時代中期の天暦元(947)年に創建された北野天満宮。

菅原道真(菅公)をご祭神とし、藤原氏によって大規模な社殿造営がなされました。

国宝に指定されている本殿は、豊臣秀頼によって再建されたものです。

これは八棟造と呼ばれる様式で、拝殿と本殿は一つの大きな屋根で覆われていて、中央に一段低くなった「石の間」が設けられています。

f:id:kouhei-s:20201124190352j:plain

まるで寺院のように

北野天満宮は、菅原道真という「人」を「神」として祀った社であり、その、拝殿と本殿を石の間でつなぎ一つの屋根で覆う建築形式は、死者を神として祀る、ある種特異な例なのです。

通常の神社の場合、鳥居を入り口とするのですが、ここ北野天満宮では、まるで寺院のように楼門と三光門が入り口となっているんですね。

菅原道真という「人間」の怨霊を鎮魂するために「神」として祀ったので、人間を供養する寺院とも、神を祀る神社ともいえる特異な形式になったのでしょう。

f:id:kouhei-s:20201124190614j:plain

このような形式の社寺は「宮寺」(ぐうじ)と呼ばれるもので、あの八坂神社も、明治の神仏分離までは宮寺でした。

八坂神社・本社も「祇園造り」と名称こそ違いますが、北野天満宮と同様に本殿と拝殿が一つの屋根で覆われていて、そういえば、入り口も南楼門・西楼門ですね。

この北野天満宮に発祥した宮寺の形は、脈々と受け継がれて、秀吉の豊国廟、家康の日光東照宮へとつながっていきます。

ふたつの社が造営されるときに、北野天満宮の遷宮方法が徹底的に調べられたことは、記録にもはっきりと残っており、人を神に祀る形式として伝えられたことは明らかなのです。

能力の高さゆえに妬みをかう

32歳の若さで文章博士となった菅原道真は、宇多天皇や醍醐天皇の重用され異例の出世をとげます。

最終的には学者としては破格の地位である右大臣・兼右近衛大臣大将にまで上り詰めたのです。

しかし、それが当時の最高権力者でもあった左大臣・藤原時平(ときひら)の反感を招き、ついに昌泰4年に太宰府に配流となります。

遠い地に流された道真は、2年後の延喜3(903)年に病によって帰らぬ人となりました。

f:id:kouhei-s:20201124190709j:plain

それから、しばらくすると京都では、異常事態が嵐のように吹き荒れる時代に突入します。

908年に、道真の配流事件に暗躍した藤原菅根が突然死。さらに翌年には怨敵の時平が39歳で不慮の死を遂げるのです。

その後、20年近くも毎年のように暴風雨・旱魃・飢饉・疫病などの天地異変が延々と都を襲います。

923年には、醍醐天皇と皇后・穏子(時平の妹)の間に生まれた保明新王、さらにその皇子である慶頼王と、立て続けに戻らぬ人となってしまうのです。

そして、930年に平安京を揺るがす決定的な大惨事が起こります。

天皇の住まいとなっている清涼殿に、上から突き刺さるように稲妻が襲い掛かり、雷が直撃しました。

大納言・藤原清貫は胸を、平希世は顔を焼かれ、御所は凄まじい炎に包まれたのです。

朝廷から民まで全ての人々が、これはもう祟り続ける道真の怨霊の仕業に違いないと、信じて疑いませんでした。

f:id:kouhei-s:20201124190758j:plain

怨霊は祀られ守護神になる

天暦元(947)年から天徳期にいたる14年間に、北野天満宮は5回も本殿を作り直していますが、これを行ったのは、時平の異母兄弟である藤原忠平(ただひら)とその子・師輔(もろすけ)です。

道真の怨霊は、時平本人とその血縁関係に対しては、ことごとく災いをもたらしました。

ですが、道真の配流に最後まで反対していた忠平は、逆に道真の怨霊を祀ることで自家の守護神へと導きせしめます。

道真の怨霊を祀る北野天満宮を氏神にすることによって、まさに忠平は一家の権力をゆるぎないものに確立させたのです。