「悪文の構造」の著者、千早耿一郎氏は、言葉には「2つの働き」があるとまず意識することが、文章を書くときの心構えとして有益だと説かれています。
「文章のもつ2つの働き」とも言い変えられますが、まず第1は、事実や意思(客観的)を伝達する働きです。
たとえば、「街は霧雨に煙っている」「日は昇りまた沈む」「明日伺います」「空間は曲がっている」(アインシュタイン)など、これらの文は、事実あるいは意思を伝えています。
その表現は、一般的に理解される・されないとは関係なく、伝える働きを持ちます。これを「伝達の働き」と呼びます。
そして、第2は書き手自身の感情を表す働き、または、相手の感性に訴える働きといってもいいかもしれません。
たとえば、「あなたは欠けることのない月だ」「あいつはカメレオンみたいに変わり身が早い」とか、さらに「麦畑は麦畑でなくて、ならべられた秩序であり、春の呼気であり、地上のじゅうたんなのだ」とパウル・クレーが言うとき、それは美に対するクレーの考えを伝えていることになるんです。
このように相手の感性に訴えかける働きは「感化の働き」です。
ほとんどの文章はこの2つのタイプの文が織りなすように構成されています。均等に振り分けられているのではなく、どちらか一方の働きのが表現力をより多く持つということも当然あるのですが。
また、この2つの文タイプの働きの対比表現は、文章表現の理論のさまざまに振り分けることができます。
文法学者の時枝誠記の論理の言うところの(詞)は「伝達の働き」に相当し、(辞)は「感化の働き」と同じ概念を持ち合わせます。心理学でいう「ディクトゥム(詞)」と「モダリティ(辞)」ですね。
もしその対比概念を1つの箱で表現するとするなら、箱の外側のデザインと、その中に入っている中身に喩えられるかもしれません。
どちらがそれに相当するかはその時の書き手の表現方法に委ねられることになります。大切なのは、その対比構造の示し方にあるんですね。
表現の対比構造を文ごとにもっとも理解しやすい方法は、述語タイプで比較してしまうことです。
「伝達の働き」は、ほとんどが客観的に動詞述語文で表現されていて、丁寧語に置き代えると、必ず文末が「ます」「ました」で締めくくられることになります。
反対に「感化の働き」は、ほとんどが書き手の感情・判断(主体的)といった形容詞述語文か名詞述語文で表現されているんです。文末は「です」「でした」で終わっています。

ここで、タイトルは少しおどおどしいですが、流れるようなリズム感を持つ名文章を例に見てみましょう。
何処からか時をうつ響きが聞こえてきた。三輪与志はその場にちょっと立ち止まった。霧はさらに深く拡がり、遥か天空まで漂いのぼるような一面の乳白色の霧であった。それは果てもない乳白色の壁であった。
湿気をふくんだ小さな乳白色の粒子が絶えまもなく沸き起こり、そして、揺れ動いている霧の層であった。霧・・・。そのびっしりと厚い霧のなかにあらゆるものがその形もなくのみこまれていた。 (埴谷雄高 死霊)
「聞こえてきた」「立ち止まった」「深く拡がり」と動詞述語文で説明が続き、締めくくるように「霧であった」「壁であった」と名詞述語で繰り返され、感嘆の思いが感情表現されています。
さらに、「沸き起こり、・・霧の層であった」と1文のなかで対比構造を示し、「霧・・・。」と1文字の名詞述語文で一度バウンドさせて、「のみこまれていた」と最後に動詞述語で締めくくっているのがわかります。
動詞述語文と名詞述語文が織りなす絶妙のコントラスト、この呼吸のタイミングこそがこの作家の表現手段なんです。
さらに、「何処からか時をうつ響き」「遥か天空まで漂いのぼるような一面の乳白色の霧」「それは果てもない乳白色の壁」「湿気をふくんだ小さな乳白色の粒子」「揺れ動いている霧の層」「そのびっしりと厚い霧のなか」という多くの連体修飾節がこの短い段落のなかに頻繁に使われているのが見てとれます。
そして、これらの連体修飾節が一連の流れるような文章のリズム感を醸し出しているんです。
程よい長さの連体修飾節から後につながっていく言葉は、いずれも短い言葉で続いていきます。
文は長い節から始まり徐々に短いフレーズになっていき、句読点で締めくくられるように書かれているんです。
言葉の節(くくり)が自然に徐々にしぼんでいくように構成されているんですね。
たとえば、
そのびっしりと厚い霧のなかに あらゆるものが その形もなく のみこまれていた。
というように、最初の「その びっしりと 厚い霧の なかに」が4文節で長い節になっていて、その後、2文節が3回繰り返されています。
夏目漱石、谷崎潤一郎や井伏鱒二といった名リズム調の文豪たちの文章には、このテクニックがよく使われています。
読んでいて、流れるような文章だと感じたら、連体修飾節に注目してみて下さい。程よく長い連体修飾節がどのように文のなかで位置づけされているか、それを注視することで面白いように文章の構造がきっと見えてくることでしょう。