日本語の複文には2種類のタイプが組み込まれていて、ひとつは連用修飾節、もうひとつが連体修飾節です。
最後の述語に向かって、言葉は係っていくのですが、その終着点が用言(動詞・形容詞)か、もしくは、体言(名詞)なのかという違いですね。
Ⓐ金曜日にコンサートへ行くので、帰りが遅くなる。
という複文の場合、「金曜日にコンサートへ行くので」が、「遅くなる」という述語に係る連用修飾節になります。
金曜日にコンサートへ行くので、(帰りが)遅くなる。
一方で、
Ⓑ正直不動産から購入したマンションに住むヒロシ
の場合、「正直不動産から購入したマンションに住む」が「ヒロシ」に係る連体修飾節です。
このⒶⒷの日本語を会話で言い変えるとすると、Ⓐの連用修飾節は自然な感じがしますが、Ⓑは、なかなか口にしないのではないかと思います。
「昨日、正直不動産から購入したマンションに住むヒロシに会ってさ・・」とは、言わないですよね。
「昨日、ヒロシに会ってさ、ほら、あの正直なんとかのマンションに住んでる・・・」というような感じで、やっぱり人と話すときは、用言を中心にした意識で思考を巡らしていくはずなんですね。
ということは、連体修飾節は書き言葉に使われることが多い、特殊的な日本語表現だと言えるのではないでしょうか。
Ⓒ自分自身とそっと交わしている、小さいけれど、取消す気持ちになれない約束
Ⓓ六条院村の閑静な場所に立っているという、先生の祖先伝来の旧宅
Ⓔ遥か天空へまで漂いのぼるような一面の乳白色の霧
心情、現物、風景と対象はさまざまでも、ひとつの「主名詞」に向かって言葉が並べられています。
1枚の写真、絵画というか、ワンシーンを切り取ったような表現になるので、詞的な感じが伝わってくるんですね。
日本語のポップスや歌謡曲を聴いていると、ほとんど連体修飾節で歌詞が綴られているのがわかります。

ですが、連体修飾節は読点「、」の打ち方をひとつ間違うと文意が全く違うものになってしまう危うさもあるんです。
たとえば、次の例文の場合だと、瞬時に意味が取れなくなります。
Ⓕお貞は町方に住みながら、武家出の意識を持つ馬琴の心中を知っていて、わざとお百(馬琴の妻)を「お内儀」とも「奥さま」とも呼ばず、「奥方様」なぞと大仰な表現をする。 『平岩弓枝(へんこつ)』
「町方に住みながら」というのは、お貞のことでしょうか、それとも、馬琴のことでしょうか。
じつは、この小説全体の設定では、お貞も馬琴も町方に住んでいることになっているんです。だから、前後の文脈を読み返していって、はじめて馬琴のことだと理解できました。
正しくは、「町方に住みながら武家出の意識を持つ馬琴」という連体修飾節なんです。
「住みながら、」と、途中に「、」が打たれているために意味が明瞭にならなかったんですね。
次は、その逆の例文です。
Ⓖ野次馬根性からノーベル賞を授与された日本人について、文化勲章授与とのタイムラグを調べてみた。『日本経済新聞』
「野次馬根性から」は「日本人」に係っていく連体修飾ではなくて、連用修飾語なので、述語「調べて見た」に係ることになります。
ノーベル賞が野次馬根性で与えられるということはありえません。「野次馬根性から、ノーベル賞を・・」と、ここは読点「、」が打たれなければならないのです。
でも、それよりも、
Ⓗノーベル賞を授与された日本人について、文化勲章授与とのタイムラグを野次馬根性から調べてみた。
と、できるだけ、短い修飾語は被修飾語に接近させると、誤解をふせぐことが出来るんですね。