名詞にくっつく助詞には、「が」「を」「に」といった格助詞や、「は」「も」「さえ」といった係助詞などがよく使われます。
単独では活用せず、くっつくことで文法機能を付与したり、一定の意義を加えたりすることがその役割りです。
格助詞と係助詞では、後続文脈に対する射程距離が違ってきます。
係助詞の場合、句点「。」つまり「文の領域」を超えて、文意に影響を及ぼしていくのですが、格助詞はその「文の領域」を越えていくことはできないんですね。
たとえば、夏目漱石の「吾輩は猫である」で見てみると、
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生まれたかは頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。
これを、一文一文にしいて完全独立させると次のようになります。
吾輩は猫である。
吾輩(に)は、名前はまだ無い。
吾輩は、どこで生まれたかは頓と見当がつかぬ。
吾輩は、何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。
つまり「吾輩は」という「は」のついた主題が二つ目の文から省略されているのがわかります。
省略されていても充分に文意が読み取れる、それが係助詞の「。」ピリオド超えであり、最初の係助詞「は」は、以後省略されても、そこまで届く射程距離を携えているということなんです。
最初の「吾輩は猫である」を「吾輩が猫である」にかえて後続文を読んで見るとよくわかるのですが、二つ目の「名前はまだ無い」までは意味が取れますが、三つ目の「どこで生まれたかは頓と見当がつかぬ」の文までくると、一人称の猫の声なのか、書き手、つまり三人称の天の声なのかが、瞬時に判断できにくくなってしまうのではないでしょうか。
この漱石の文章では二つ目の文が極端に短く、「が」という助詞が届きましたが、基本的には格助詞はひとつのセンテンス内の射程距離でしか文意を保てない構造になっているんです。

料理文で、もう一例見てみましょう。
ゴボウは汚れを落とします。斜め薄切りにして水にくぐらせ水気を切り、薄口しょうゆ大さじ1をからめます。
「ゴボウは」の「は」のなかに潜在しているのは、接続助詞「の」です。
最初の文を「ゴボウの汚れを落とします」にかえてみると、次の料理過程もゴボウのことを言っているのかが、はっきり読み取れなくなります。
なぜなら、ふたつめの文から先に省略されている助詞は「の」ではなく、「を」と「に」がそこに潜在しているからです。
ゴボウを、斜め薄切りにして水にくぐらせ水気を切り、ゴボウに、薄口しょうゆ大さじ1をからめます。
ゴボウの斜め薄切りにして水にくぐらせ水気を切り ?
ゴボウの薄口しょうゆ大さじ1をからめます ?
ですが、「の」を「は」にかえるだけで息長く続けていくことができるんです。
このように係助詞「は」の兼務は一回だけでなく、数回に及んで、文意のなかを貫いていきます。
しかも代行する助詞(たとえば「の」にかぎりません)も一種類だけでなく、複数格複数回の兼務をやってのけるんですね。