文の主語と述語を結ぶ役割をはたす品詞は、「コピュラ」と呼ばれています。
もともとはラテン語で「連結」という意味ですが、文法用語として扱われるようになりました。
日本語でいうと、「だ」「です」「である」「だろう」。英語の場合は、「be動詞(am.is.are)」のことを指します。
Ⓐ出来るだけ早く効かせたいクスリは、だいたいが顆粒状です。
出来るだけ早く効かせたいクスリは(何かというと)だいたいが顆粒状です。
この例文は、A=B(クスリ=顆粒状)という構文になっているのですが、この「=」の役割を担うのがコピュラなんです。
「AとはBのことです」「Aは言い換えればBだ」「つまり、AとはBそのものだ」
深層心理だけを核とするなら、コピュラで結ばれたコピュラ文は、日本語の基幹文だとさえ言われています。
文法学者の砂川有里子さんは、その著書「文法と談話の接点」のなかで、コピュラ文のなかでも最も読み手に「B」を印象付けさせることのできる文型が「分裂文」なのだと説いているんですね。
たとえば、例文Ⓑが分裂文の文型になります。
Ⓑ手塩にかけた人気のワインを見守っているのが、ピエトロ・ピリじいさんだ。(コピュラ・分裂文)
これは、
Ⓒピエトロ・ピリじいさんが、手塩にかけた人気のワインを見守っている。(動詞文)
という、動詞文のなかにある「ピエトロ・ピリじいさん」という主語を述語の位置に移動(分裂)させて、コピュラ文に変換した文型なんです。
「ピエトロ・ピリじいさん」という「名詞」を文の一番あとに配置することにより、読み手の意識に「その名」は強く印象付けされることになります。
これは、日本語文の文型から派生される形を利用したもので、日本語では文の最後にくる言葉が最も読み手の意識に残る構造になっているからです。
だから、「ピエトロ・ピリじいさん」を、この後に続く文脈で話題の中心にする場合、Ⓑの動詞文ではなく、Ⓐのコピュラ文を使ったほうがスムーズに文脈を形成させていくことができるんですね。
Ⓓなんという物価高、まずヤリ玉にあげられたのが私の晩酌である。
Ⓔ高松城を背に海に突き出しているのが、高松フェリー埠頭だ。
Ⓕ観賞目的の外来種導入への欲求は強まった。ここに有利に働いたのが日本の四季であった。
上の例文の場合でも、「私の晩酌」「高松フェリー埠頭」「日本の四季」という名詞は強烈な印象を残し、ここから、その話題が語り継がれることが推測されます。
ですが、なんとなく、この分裂文の言葉使いに違和感を覚えられるかたも、多いのではないでしょうか。
実際に日本語の文型にすると、少しわざとらしいというか、むしろ、日本語では動詞文で書かれていたほうが自然に感じるのかも知れません。そう、分裂文というのは、どこか翻訳調の感じが漂っているんですね。

コピュラ文にみられる「AはBだ」という文型は命題文と呼ばれています。
命題 主辞(しゅじ Subject)+ 賓辞(ひんじ Predicate)
①All pit vipers are venomous.
②Some types of mushrooms are poisonous.
この①②の英文を「準日本語」、つまり翻訳調の日本語で訳すと次のようになります。
①すべてのマムシは、有毒だ。
②ある(種の)きのこは、有毒だ。
係助詞「は」までが主辞で、そのあとが賓辞です。分裂文というのは、まさにこのタイプにあてはまります。
では、これを自然な形の「純日本語」にしてみましょう。
①マムシは、すべて有毒だ。
②きのこには、有毒なのがある。
やはり、この「純日本語」のほうが、しっくりとくる感じがします。
①の場合、数量表現である「すべて」は、日本語では一般に副詞として使用されるので、述語名詞の「有毒」にくっつき、賓辞のほうに入ってしまうんです。
また②の文でも、格助詞「ガ」は、賓辞のほうへ入るのが自然な形なんですね。
ところが、翻訳調の直訳で和訳にすると、副詞や格助詞が主辞のほうに依存することになります。
特に分裂文の場合、「~しているのが」と形式名詞「の」を使って、文まるごと主辞としてまとめ上げているのが見てとれるんです。
(主辞)高松城を背に海に突き出しているのが、
何かというと
(賓辞)高松フェリー埠頭だ。
形式名詞「の」が使われるとそこまでの文がまるごと一つの名詞と化してしまうんですね。形式的に名詞化してしまう、だから形式名詞なのです。
(高松城を背に海に突き出しているの)が
まあ、とはいいつつ、村上春樹の小説など、強烈な翻訳調の文体を感じさせる作品が多くの読者の心を掴んでいるというのもひとつの事実なのでしょう。