清凉寺  嵯峨釈迦堂  もしも想夫恋が聴けるなら

寛平6(894)年に遣唐使が停止されてから約1世紀後、東大寺の僧である奝然(ちょうねん)が、密教を研究するために中国(宋)主要部へ向かいます。それは、古代日本人の最大の旅行記といわれ、その期間は約20ヶ月におよびました。

奝然は、江南の台州で、有名なインド伝来の釈迦の生き写しとされる仏像を拝謁します。
彼は、宋の皇帝に許しを得て、その釈迦像そっくりの摸像を造らせて日本へ持ち帰りました。
それが清凉寺のご本尊、国宝の釈迦如来像です。その釈迦像があまりに有名なので、清凉寺は嵯峨釈迦堂とよばれてきたんですね。

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古くから名刹だった清凉寺は、「平家物語」の小督(こごう)の話で、名場面として扱われる舞台になっています。

 

平清盛の次女である徳子は、高倉天皇の中宮となりましたが、二人の間に生まれたのが後の安徳天皇です。清盛の画策により、まだ20才の高倉天皇は、僅か3才の安徳に天皇の位を譲位させられます。
高倉天皇は、徳子の顔を見るたびに父親の清盛の顔がちらついて、全然面白くありませんでした。

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徳子は立派な度量をもつ女性で、失意の高倉天皇を慰めるために、宮中一の美人と評判が高く琴の名手でもある小督を遣わします。高倉天皇は、あっという間に小督に夢中になり虜になって、終日物思いにふけるようになりました。

寵愛を一身に集めた小督は、なんと皇女の範子を出産しました。そして、清盛がこれを聞きつけ激怒していることを知り、小督は宮中から姿を消します。自分自身のことよりも、高倉天皇の身に累の及ぶことを恐れたからなのです。夕ぐれ時に宮中を出た彼女は、清凉寺から歩いてすぐの距離にある、嵐山の大堰川たもと渡月橋近くに身を隠します。

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高倉天皇の悲嘆は尋常ではないくらい深く、周りの者も天皇を正視できないくらいでした。天皇の側近たちは、仲国(なかくに)という家臣の男に小督の探索を命じます。

仲国は宮中の重鎮たちに呼びだされました。
「ちゃちゃと見つけてこいよ、清盛なんか気にせんでええねん。どうせまたしばらくしたら、ちがう武士が出てきて仕切りよんねんから。変わるんやから」

「ちゃちゃと、って言われても、どこにいけばいいんだよ」と、仲国は月明の夜を白馬に乗って、小督の隠れ家を探しに出かけます。そして、仲国はもしかして小督は釈迦堂におこもりして祈っているのではないかと、清凉寺に向かうのです。

ですが、そこには小督はいませんでした。「ダメだ〜いない、いったいどうすればいいんだ」仲国は、途方に暮れます。そんな時、ふと彼の脳裏によみがえってきたのは、小督がいつも奏でていたあの曲、想夫恋(そうふれん)のメロディでした。「そうだ、もし笛を吹きながら馬で進めば、小督さんが琴で想夫恋を弾いて応えてくれるかもしれない」

もしも想夫恋が聴けるなら、思いのすべてを笛で吹き、君に伝えることだろう。

仲国はそう思いながら、清凉寺から嵐山までの一本道を、笛を吹きながら白馬をゆっくりと進めます。まさにその時です、小督の奏でる想夫恋の琴の調べが、仲国の耳に届いたのです。

再び宮中に大喜びで迎えられた小督は、人目につかない一室を与えられ、天皇の盲目的な愛を受けました。
でも、しばらくすると清盛に「もしかして、小督を隠してるんと違うやろな」と、見つかってしまいます。結局、小督は清水寺の裏手の清閑寺で尼になり、余生を穏やかにすごすことになるのです。

 

嵯峨野の四季は、京都でも特に魅力的だと思います。千年前の王朝の貴族たちが、競って別荘地に選んだのもわかるような気がします。

月明かりの夜に、月に誘われて清凉寺を訪れたなら、白馬にまたがった仲国の姿が見えるかもしれません。小督の奏でる想夫恋のメロディが、きっと貴方にも聴こえるでしょう。