今回も、文章における「主体の表現位置」について考察していきたいと思います。
表現主体の自己位置を厳密に示すことによって、その作品の世界観は読者にスムーズに伝わる、というのがこれまでに見てきた論理でした。
わかりやすく見るために、ひとりの学生が書いた、ある大学で非常に高評価を得ている写生文を題材にし、書き手が自身の表現位置をどのように示し、外界を描いているのか、その文章の特徴を分析していきます。
秋の小景
古い教授館の裏の、さほど広くない地面に、やわらかい、微妙な影を見た。その影は、秋の日が十数本の南楊はぜに落ちてつくったものだった。
南楊はぜは、不規則に、しかし、ひっそりと幹を伸ばして立っている。見上げても、太陽の光は目を射てはこない。建物の陰にならない向こうの方では、葉の緑が輝いているけれども、それとて決して明るすぎることはない。もう夏ではないのだ。
どこからか蝉の声がかすかに聞こえる。しかし、この小さな林はすっかり秋である。南楊はぜの丸い単純な葉の形も、その色も、秋の日と同じようにおだやかな表情をしている。
古い教授館の、ひとつ開かれた窓。片すみに乗り捨てられた白い自転車。誰も訪れる人もないような、そんな感じのキャンパスの片すみだった。

まず書き手は、「影を見た。見上げても、射てはこない。かすかに聞こえる」といった視覚と聴覚の表現位置をもって、その外界とのつながりを表現しています。
そして、その示された表現位置は、「もう夏ではないのだ」「すっかり秋である」という書き手の内面描写と今度はつながっていきます。
注視したいのが、「おだやかな表情をしている」という、書き手の心理が含まれてはいるけれども、どこか外から捉えたような表現の部分です。
ここでは、心と視覚、内部と外部の表現がどこかあいまいに重なりあった表現がされているんですね。
自己と外界の境界はぼやかされ、そのあいまいさが二つの世界をうまく調和させることに成功しているんです。
そして、その中和的な表現が生きて、「誰も訪れる人もないような、そんな感じのキャンパスの片すみだった」と、自然に最後につながっていくことになります。
自分自身の表現位置を示すこと、まさに、それこそが文章でしか表現できないことなのではないでしょうか。
コトバで人に伝えるとき、「俺は、今、歩いている」とか、「私は、その時、見ていた」といったように、わざわざ口にすることはまずないからです。
いちいち表現することによって、読み手に自身のその位置を示す。意識していないと、ふと、書き落としてしまうのも仕方ないのかもしれません。