それは歴史的発見 平成11年、神泉苑にほど近い京都市立西京商業高校のグラウンドが発掘され、極めて貴重な遺跡が発見されました。 それは平安時代の寝殿造り、貴族の邸宅と池泉庭園が、そっくりそのままの形で姿を現したのです。 池の大きさは、東西15メ…
桜舞い散るその下で 慶長3(1598)年、豊臣秀吉によって名刹・醍醐寺で開かれた「醍醐の花見」。 それは、日本国はじまって以来の華麗極まる花見と語り継がれることになった壮大なイベントでした。 豊臣ファミリーと側近武将たち、そして、1300人の…
戦前の日本において、楠木正成と並んで、二代忠臣と呼ばれた和気清麻呂(わけのきよまろ)。 楠木正成は南朝を守るために、武人として壮絶な最期を遂げましたが、清麻呂は、王朝の万世一系という神勅を命懸けで守った官人でした。 女帝と怪僧 神護景雲3(7…
江戸幕府第五代将軍 徳川綱吉 綱吉の母・桂昌院は、ある悩みを抱え、祈祷に通いつめていました。 息子の綱吉に後継ぎができないこと、つまり孫が授からないのは、自身の信仰が全然足りないからだと苦悩していたのです。 もともと信仰心の篤かった彼女は祈祷…
そして本堂だけが残った 有名な観光寺院では、昔からの伽藍群がそのままに、本堂、山門、講堂、塔という全てが揃っているものなのですが、京都のお寺には、町のなかに一部分だけが残されているケースがじつは多いのです。 そして、その残されている一部分と…
自分にバンザイ わたしでよかった 平安時代最高の権力者といわれる藤原道長。自宅に招いた大勢の公卿の前で「この世をばわが世とぞ思ふ」という和歌を詠み、その場を凍りつかせました。 その慢心に聞こえる自画自賛は、酒の席での戯言でしょ、と流されること…
誰もが振り返る美貌 王朝の三才女と呼ばれたのが、清少納言と紫式部、そして和泉式部です。 ともに、一条天皇の中宮のもとに出仕しているのですが、中宮・定子に仕えたのが清少納言で、その後に中宮となった彰子(しょうし)には、紫式部と和泉式部が順に仕…
春はあけぼの。それは余韻をもたせた日本的表現 四季折々の風物が見事に描写された「枕草子」。 清少納言の観察力と感性の鋭さで描かれた、その平安文学の傑作は、今日読み返されても色あせることはありません。 「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは…
藤原北家の摂関独占 平安時代初期から後、藤原四家のなかで摂政・関白の座を独占したのは藤原北家でした。 かって勢力を誇示していた南家や式家は、相次ぐ政争に巻き込まれてすでに失脚していました。 院政期以降は形骸化したとはいえ、明治維新までの900…
朱く長き異界 商売繁盛の神様として有名な伏見稲荷大社。その朱一色の世界は、京阪電車・稲荷駅にも見られ、伏見という街のイメージと重なり合います。 稲荷という社名は、「稲生」(イネナリ)の「ネ」が抜けて「イナリ」となり、「リ」が「ニ」に転音して…
福運の姫君 徳川二代将軍・秀忠の五女である和子は後水尾天皇に入内し、度々起こった公武関係の危機は回避されました。 まさに、朝廷と幕府の平和への架け橋となった彼女は、京都文化の復興にも大きな足跡をのこしています。 政治的な役割よりも、むしろ自身…
謀反は突然に 天正10(1582)年6月2日、まだ夜の明けきらぬ京都の町。 明智光秀の率いる一万三千の兵が本能寺を囲み、滞在していた君主・織田信長に襲いかかりました。 「あの、明智どのが・・・まちがいないのか」 安土城の留守を守る蒲生賢秀(が…
川面に映える名月 指月城 伏見山の西南に、「指月の森」と呼ばれる小高い丘陵地帯があります。 そこは、宇治川を臨む風光に恵まれた場所で、大坂と京都をおさえる重要な要衝でもありました。 川面が映しだす月の色をもらうために、豊臣秀吉はこの地に指月・…
春の陽が地上に降りそそぐ穏やかな日、出陣する織田信長軍の傍らの畑で、農民がスヤスヤと居眠りをしていました。 これを見た、信長の顔色をうかがう木下秀吉は、「こいつらのために合戦にいくのに」と激怒し斬りかかろうとします。 ですが信長は、「いや、…
正倉院秘蔵 蘭奢待 天正2(1574)年、骨董品・茶器の名物収集に励む織田信長は、ついに、御持の蘭奢待(らんじゃたい)を手に入れました。 蘭奢待とは正倉院秘蔵の名香ですが、室町幕府八代将軍・足利義政が手に入れて以降、多くの希望者があっても誰ひ…
真理だけを突き詰める 22の塔頭寺院とふたつの別院で構成される広大な境内を持つ大徳寺。 臨済宗大徳寺派の大本山として、禅の道場としての使命を果たし続けてきました。 風情ただよう石畳の通路、新緑と花々に彩られた聖空間の古刹。 千利休をはじめ多く…
平安時代中期の天暦元(947)年に創建された北野天満宮。 菅原道真(菅公)をご祭神とし、藤原氏によって大規模な社殿造営がなされました。 国宝に指定されている本殿は、豊臣秀頼によって再建されたものです。 これは八棟造と呼ばれる様式で、拝殿と本殿…
神仏分離令からまだ150年 神と仏は同じであると考える神仏習合。それは、今日ではあまり理解されていません。 ですが、明治維新で神仏分離令が出されるまで、奈良時代から江戸時代まで1200年の間、ごく自然に日本人に受け入れられていたのです。 日本…
イメージされる無限の観音像 三十三間堂 文永3(1266)年の再建から750年もの間その姿を保ち続けてきた蓮華王院・三十三間堂。 お堂に安置された一千一体の千手観音像に守られてきた奇跡の宗教建築です。 丈六の千十観音座像を本尊とし、その脇侍に…
松永久秀「所司代」 天文18(1549)年、阿波国の戦国大名・三好 長慶(みよし ながよし)は、将軍・足利義晴と足利義輝を京都より追放しました。 実質的に洛中の支配権をにぎった長慶でしたが、初期の頃の権限内容は今も不明なところが多く、史料もほ…
雁金屋の3兄弟 徳川家の娘に生まれ皇室に入内した東福門院和子。 朝廷と幕府の平和の架け橋となったその偉大な皇后は、延宝6(1678)年、帰らぬ人となりました。 彼女に最もひいきにされていた幕府御用達・老舗呉服商の雁金屋(かりがねや)の商運は、…
御池と御室 代々天皇の皇子および皇孫が門跡という住職を務められた世界文化遺産・仁和寺。 神泉苑のある場所が御池と呼ばれるように、この古刹がある地域も御室と呼ばれてきたのです。 寺であると同時に宮殿であるという性格を持つこの門跡は、全国の寺社を…
京都市民が待ちこがれたその人 元和6(1620)年6月、二代将軍秀忠の娘・徳川和子の入内を一目でも見たいと、京都・洛中の街路には群衆があふれていました。 至美至高の行粧をこらしたその新しい女御入内は盛大に営まれたのです。 この時期の朝廷と幕府…
あっさりと翻った豊臣恩顧たち 元和元(1615)年5月7日、難攻不落と称された大坂城は、徳川軍から止めを刺される猛攻撃を受け、ついに落城しました。 翌8日、秀忠の娘・千姫の助命嘆願も受け入れられず、豊臣秀頼、淀殿ともに自害し帰らぬ人となった…
激動の50年 永禄11(1568)年に織田信長が入京してから、元和元(1615)年の豊臣家滅亡までの僅か50年に満たない日月。 この短いながらも激動の時代は、近世封建制度の成立と、京都の新たな都市計画の始まりでした。 中世の終わりから仏教は、…
京都に出現した近世的覇者 王城を抱く京都が堅持した古くからくる伝統や、そこに住む人々の生活から育った風習。 新しい街の支配者である織田信長は、これらを一切認めませんでした。 永禄11(1568)年、中世末のカオスの世界から生まれた近世的覇者は…
信長が築造した二条城 二条城といえば、徳川家康によって築造された現在も遺る「京之城」をいいますが、それよりずっと前に、京都にはもうひとつの「二条城」がありました。 それは、足利幕府最後の将軍・足利義昭のために織田信長が築造したかなり大規模な…
750年前から守られてきたお堂 蓮華王院・三十三間堂は、長さ125mの仏殿の中に1001体の千手観音像が整然と並ぶ、国宝の宗教建築です。 住んでいた法住寺殿の中に、後白河院が平清盛の力を借りて、長寛2(1164)年に建立しました。 観音の力で…
建物から飛び出している尾廊 朝日山から朝日が昇ると、眩い光が池の水面に当たり、その光が反射してお堂の中を照らします。 さざなみのようにキラキラ揺れる光を受けた仏像は、まるで胸のあたりで呼吸しているようです。 生み出された自然の光によって、阿弥…
歓喜に沸く豊国大明神臨時祭 慶長3(1598)年、豊臣秀吉は伏見城で他界し、方広寺大仏殿の背後にそびえる阿弥陀ヶ峰に理葬されています。 翌慶長4年には、「豊国大明神」という神号を朝廷から与えられ、正式に神格として祀られました。 これが「豊国神…