堀川六条 義経邸での出来事  弟を許さなかった頼朝

兄はなぜ怒っているのか 文治元(1185)年、源頼朝の密命を受けた土佐坊昌俊(しょうしゅん)が京へと向かっていました。 目指すその場所は、現在の西本願寺の近くにあった源義経と恋人の静、その二人が住む邸宅です。 このとき義経は実の兄である頼朝か…

室町幕府 崩壊のきざし  それは下剋上のはじまり

突然の出来事 長享3(1489)年、室町幕府第9代将軍・義尚(よしひさ)は、弱冠25歳の身でありながら、近江の陣中で戦死しました。 この予期せぬ事態により、足利将軍の座が空白になったので、隠居の身でありながらも大殿の立場にあった義尚の父・義…

室町幕府  導かれた場所 室町今出川上る

はじまりの場所 足利政権のはじまりのときに、どこに幕府を開くのか、鎌倉にするべきか、それとも京都にするべきなのかという議論が繰り返し行われました。 新たな幕府にとって政権の所在地をどこにするのかは、極めて重要なテーマだったからです。 そして、…

向島城  観月のために築城された幻の城

月見のためだけに 京都伏見の地にあった幻の城といわれた向島城。 隅田川の近く、むこうじま ではなく、むかいじま と読みます。 豊臣秀吉の別荘として建築されたのですが、秀吉の死後8ヶ月後には徳川家康が城主となりました。 現在の向島地域では城跡を感…

五山送り火  夏の夜空にゆらめく炎

乾いた静かな夜空に、炎がゆらめく五山送り火は、夏の京都の風物詩。 大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形と次々に浮かび上がり、儚く消えていきます。 毎年8月16日に、お盆に帰ってきた先祖の霊を壮大な送り火で見送るこの風習は、洛中に脈々と伝承さ…

細川ガラシャ  山城の花嫁 その美麗比喩なく

天正6年8月、明智光秀の三女・玉は、勝竜寺城に居城する細川忠興のもとへと嫁ぎました。 父と暮らしていた近江・坂本城から、かごに揺られながら比叡山を超え、山城国へとやってきたのです。 城下町にやってきた花嫁は、「容顔の美麗比喩なく」と、あっと…

二条城障壁画  御用絵師 狩野家

ただひとつだけ遺された将軍の住居 戦国時代以降、城郭造営はいちじるしく発展をとげました。 鉄砲の伝来によって戦争の在り方が大きく変わったこともあり、天下統一を目論む武将たちが、攻防戦によるその効用を重視したからです。 そして、安土桃山時代から…

智積院  根来寺の炎上から  少しでも前へ 

成田不動で有名な「成田山新勝寺」、初詣の人々で賑わう「川崎大師平間寺」、日帰り登山の聖地、高尾山「薬王院」。 いずれも関東屈指の大寺院ですが、この三つの名刹は新義真言宗・智山派に所属し、宗団の東日本における拠点となっています。 そして、それ…

祥雲寺  東山七条 地下に眠る歴史的・客殿遺構

平成4年、東山七条にある名刹・智積院(ちしゃくいん)の講堂が再建されることになり、事前に建設予定地の調査が行われたことで、歴史的な遺構が発掘されました。 なんと、智積院の前身寺院として知られる祥雲寺の桃山時代の客殿遺構が見つかったのです。 …

龍安寺  謎につつまれた石庭 義政と庭師たちの有縁 

研ぎ澄まされた静寂の空間 嵯峨野から金閣寺へと続く霊気ただよう、きぬかけの路(みち)。 人もまばらな、そのストリートから視線を上げると、すぐそこに衣笠山(きぬがさやま)から朱山(しゅざん)が連なっているのが見えます。 この山々のふもと一帯は、…

伏見城  鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦

激戦地 伏見城 慶長5(1600)年、関ケ原の戦いに突入するころ、京都・木幡山にある伏見城は、前哨戦とされる激戦地になっていました。 徳川家康がその生涯で最も信頼したという老臣・鳥居元忠(もとただ)。 その元忠を総司令として伏見城を占拠する東…

飛雲閣  秀吉の足跡 それは聚楽第・伏見城の遺構なのか

西本願寺の境内にそびえる国宝・飛雲閣は、金閣寺、銀閣寺とともに京都三名閣と呼ばれています。 純金で内装されていたという豊臣秀吉が造営した聚楽第の遺構だと、少し前までは、そう伝えられていました。 ですが、現在の時点では、建物の第二、第三階に改…

鞍馬寺  毘沙門天立像  わずかな光のなかに道はある

はるか彼方を見すえる鞍馬寺の毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)。 左手を額あたりにかざして、遠く、平安の都を見守っています。 北方から都を守護するため、秘境の霊山というその場所に立ち続けてきました。 ま昼でさえ漆黒のような暗闇に覆われる…

銀沙灘と向月台  月に照らされた 青の世界

ユートピア 文明14(1482)年、応仁の乱が終わり、世の中が少し落ち着きはじめると、前将軍・足利義政は、頓挫していた山荘邸宅の造営に再び執りかかりました。 すなわち、現在「銀閣寺」と呼ばれている寺のことですが、もともとは、義政の終の棲家と…

西園寺家と日野名子  ふたりの明日

西園寺家をよろしく頼むべし 西園寺公経(さいおんじ きんつね)を事実上のルーツとする京都・西園寺家と、鎌倉・北条家のつながりは密接でした。 承久3(1221)年、武家政権から実権を取り返すために後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱。 太政大臣の西園寺…

糺の森  ひとびとが行きかう鎮守の森 光が地を包む

針葉樹じゃなくて広葉樹 日本の神様は、静かな暗い所がお好きなので、深い緑に包まれた森に鎮座されます。 いちばん好適なのは、スギやヒノキなどの常緑の針葉樹が立ち並ぶ、そんな場所です。 なぜなら、よく茂った樹々の緑葉が陽射しを遮り、うっそうと辺り…

琳派のはじまり  本阿弥家の偉大なる母 妙秀

天下泰平の訪れ 徳川政権が豊臣家を滅ぼし天下泰平としたそのあと、彼らは、江戸からの全国支配による封建体制を着々と整えていきました。 片や京都では、この新しい武断政権の統制に対抗するように、王朝文化を伝承していこうという気風につつまれ、後水尾…

広隆寺 弥勒菩薩半跏像  口もとにたたえるアルカイック・スマイル

日本美術を守ったフェノロサ 明治初期、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる奈良・京都では多くの仏像や仏画が犠牲となっていました。 奈良・京都を頻繁に訪れていた東京大学教授のアーネスト・フェノロサ。彼はこの現状に強い危機感を抱きます。 この頃、フェノロサと…

水の都  扉を開けたら 霧雨のなかの平安京 

それは歴史的発見 平成11年、神泉苑にほど近い京都市立西京商業高校のグラウンドが発掘され、極めて貴重な遺跡が発見されました。 それは平安時代の寝殿造り、貴族の邸宅と池泉庭園が、そっくりそのままの形で姿を現したのです。 池の大きさは、東西15メ…

醍醐の花見  京極竜子の生涯 圧倒的なその美貌

桜舞い散るその下で 慶長3(1598)年、豊臣秀吉によって名刹・醍醐寺で開かれた「醍醐の花見」。 それは、日本国はじまって以来の華麗極まる花見と語り継がれることになった壮大なイベントでした。 豊臣ファミリーと側近武将たち、そして、1300人の…

和気清麻呂  平安京建都 約束の場所  

戦前の日本において、楠木正成と並んで、二代忠臣と呼ばれた和気清麻呂(わけのきよまろ)。 楠木正成は南朝を守るために、武人として壮絶な最期を遂げましたが、清麻呂は、王朝の万世一系という神勅を命懸けで守った官人でした。 女帝と怪僧 神護景雲3(7…

桂昌院  遠くへ 西陣のお玉は江戸で将軍の母になった

江戸幕府第五代将軍 徳川綱吉 徳川綱吉の母・桂昌院は、ある悩みを抱えていたことで祈祷に通いつめていました。 息子の綱吉に後継ぎができないこと、つまり孫が授からないのは、自身の信仰が全然足りないからだと苦悩していたのです。 もともと信仰心の篤か…

千本釈迦堂 奇跡の建築  高次とおかめ 君に出会えてよかった

そして本堂だけが残った 有名な観光寺院では、昔からの伽藍群がそのままに、本堂、山門、講堂、塔という全てが揃っているものなのですが、京都のお寺には、町のなかに一部分だけが残されているケースがじつは多いのです。 そして、その残されている一部分と…

法成寺を建てた藤原道長  欠けることのない満月 

自分にバンザイ わたしでよかった 平安時代最高の権力者といわれる藤原道長。自宅に招いた大勢の公卿の前で「この世をばわが世とぞ思ふ」という和歌を詠み、その場を凍りつかせました。 その慢心に聞こえる自画自賛は、酒の席での戯言でしょ、と流されること…

和泉式部  恋愛歌人 そのバラ色の生涯

誰もが振り返る美貌 王朝の三才女と呼ばれたのが、清少納言と紫式部、そして和泉式部です。 ともに、一条天皇の中宮のもとに出仕しているのですが、中宮・定子に仕えたのが清少納言で、その後に中宮となった彰子(しょうし)には、紫式部と和泉式部が順に仕…

清少納言  February Morning  東の空を見上げて

春はあけぼの。それは余韻をもたせた日本的表現 四季折々の風物が見事に描写された「枕草子」。 清少納言の観察力と感性の鋭さで描かれた、その平安文学の傑作は、今日読み返されても色あせることはありません。 「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは…

法性寺  藤原北家 その偉大なる系譜の氏寺

藤原北家の摂関独占 平安時代初期から後、藤原四家のなかで摂政・関白の座を独占したのは藤原北家でした。 かって勢力を誇示していた南家や式家は、相次ぐ政争に巻き込まれてすでに失脚していました。 院政期以降は形骸化したとはいえ、明治維新までの900…

伏見稲荷大社  荼枳尼天は白いキツネに乗って

朱く長き異界 商売繁盛の神様として有名な伏見稲荷大社。その朱一色の世界は、京阪電車・稲荷駅にも見られ、伏見という街のイメージと重なり合います。 稲荷という社名は、「稲生」(イネナリ)の「ネ」が抜けて「イナリ」となり、「リ」が「ニ」に転音して…

徳川家光によって再興され現在の姿になった観光寺院が京都ではなぜ多いのか

福運の姫君 徳川二代将軍・秀忠の五女である和子が後水尾天皇に入内し、度々起こった公武関係の危機は回避されました。 まさに、朝廷と幕府の平和への架け橋となった彼女は、京都文化の復興にも大きな足跡をのこしています。 政治的な役割よりも、むしろ自身…

本能寺の変 そのあとすぐの話  明智光秀と「京町中の者ども」

謀反は突然に 天正10(1582)年6月2日、まだ夜の明けきらぬ京都の町。 明智光秀の率いる一万三千の兵が本能寺を囲み、滞在していた君主・織田信長に襲いかかりました。 「あの、明智どのが・・・まちがいないのか」 安土城の留守を守る蒲生賢秀(が…