月見のためだけに
京都伏見の地にあった幻の城といわれた向島城。
隅田川の近く、むこうじま ではなく、むかいじま と読みます。
豊臣秀吉の別荘として建築されたのですが、秀吉の死後8ヶ月後には徳川家康が城主となりました。
現在の向島地域では城跡を感じられるものは何もなく、「本丸町」「二の丸町」の町名が残るだけです。
観月会を開くために、月見の城として利用するためだけに、秀吉は向島城の築城を計画しはじめました。
秀吉に命じられた前田利家による槙島堤の造成と並行して築城工事は進められ、文禄4(1595)年の3月から4月にかけて、全国から桜の名木500本が、向島の宇治川へ沿って移植されています。
さらに度重なる宇治川・淀川の氾濫による水害対策のため、毛利、吉川、小早川という西国三大名に淀堤の造成を秀吉は命じているのです。
住居としていた本城の指月伏見城もすぐ近くにあったわけですから、念には念の災害防止対策が当然このエリアにはとられていたんですね。
ところが翌年の夏になると、せっかく開発されたこれらすべての建築群が一瞬にして崩壊するという悲劇に見舞われます。
マグネチュード7.0、近畿内を襲った慶長の大地震です。
翌年の春まで余震が続き、京都の町が受けた被害は尋常なものではありませんでした。
この地震により、指月伏見城は、天守閣も、石垣も、すべてが破壊され、修復不可能な状態になります。
ところが半分ほど出来上がっていた向島城は、かなり地盤が柔らかい場所で施工が進められていたために被害は軽小ですみました。
だから指月伏見城の代わりに木幡伏見城が築城され完成するまでの間、豊臣家は向島城で過ごすことになったんですね。
豊臣家の派閥
秀吉がこの世を去ってから、徳川家康と石田三成の対立は徐々に表面化していくことになります。
豊臣政権には、もともと派閥が形成されていました。対立軸は北政所(ねね)派か、淀殿(茶々)派か、ということと、武断派か官僚派ということです。
ねね派(本妻)は、加藤清正、福島正則などの若き武闘派の軍人たちの集団です。
豊臣秀長や千利休も、この派閥に近い立場をとっていました。
もう一方の茶々派(妾)はというと、息子の秀頼と、石田三成を中心とした小西行長、増田長盛といった頭脳集団、インテリ官僚たちの集団で形成されていました。
毛利輝元、上杉景勝といった大名たちも、この茶々派に近い立場にあったといっていいでしょう。
そしてこの派閥の対立に目つけて、秀吉の死後、豊臣家を滅亡に導こうと謀をくわだてたのが徳川家康なのです。
家臣を巻き込んで本妻 対 妾という愚かな争いをする豊臣家に対して家康がとった行動は、やはり北政所に接近するというものでした。
予想される家康の最後の敵は茶々と秀頼であり、北政所を味方につけるということは、秀吉子飼いの武将たちをまとめて味方にすることが出来るからです。
事実、藤堂高虎、細川忠興、池田輝政、山内一豊などの有力武将たちは家康支持派となっていったのです。
清正や福島など、秀吉に忠義を尽くしてきた武将たちが本当に守りたかったのは幼い秀頼であったことでしょう。
だから本当に秀頼を心配するなら、皆で家康を牽制しなければならなかったのです。
でも唐入り問題など、これまでのもめ事にみられるように、口ばっかりで戦うことのない三成や小西たちを武闘派たちは徹底的に憎んでいる。
清正たちは死んでも三成と手を組みたくはなかった。
そうなのです、〔秀頼を大切に思う清正たちが、なぜか家康の味方になる〕という矛盾を起こすこと、それこそが家康の本当の狙いだったんですね。
家康と利家
このころの家康にまともに対抗できる大名といえば、前田利家ぐらいのものでした。
上杉、毛利あたりでも、二人に比べればかなり格が落ちる存在だったのです。
ましてや、それ以外の若僧武将たちなんかは、家康や利家から見れば鼻たれ小僧みたいなもんだったんですね。
だから秀吉の死の7ヵ月後、利家が秀吉のあとを追うようにこの世を去ったのは、家康にとってはとんでもない幸運だったことになります。
もはや家康にまともに対抗できる存在はこの時点で誰もいなくなりました。
その家康に危機感を抱き、猛烈な勢いで嚙みついたのが三成なのです。
慶長4(1599)年、老いて死期を悟っていた利家は、病床をおして、わざわざ伏見にあった家康邸を訪ねます。
それはずっと気になっていた最後の懸案事項である豊臣秀頼の将来について家康に相談するためのものでした。
おそらく利家は、これから先自分がいなくなってから、家康が天下の覇者となることを感じ取っていたのでしょう。
たとえ豊臣家がこの先一大名にすぎなくなったとしても、寛大なる処置をもって存続させてもらえるように一言お願いしたかったのです。
そしてこのとき利家は、家康の屋敷が三成の屋敷のすぐ近くにあることを懸念し、家康に向島城に移るようにと提案しています。
その数ヵ月後、家康は亡き利家の意をくんで向島城の城主となるため、入城のために行列を組んで伏見より城に向かいました。
その時、今まで対抗し続けた非礼を詫びるためにきれいな坊主頭に仕上げた奉行たちが、大勢で整列して手前の豊後橋まで迎えに出てきていたのです。
まさにこのとき家康は、確実に天下人への階段をのぼりはじめていたのでしょう。