こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

琳派のはじまり  本阿弥家の偉大なる母 妙秀

天下泰平の訪れ

徳川家が豊臣家を滅ぼし、天下泰平をついに成し得たとき、彼らは江戸を拠点として、実質的な全国支配を着々と整えていきました。

一方、そのころ京都では、この新しい武断政権の統制に対抗するように、皇室文化を伝承していこうという気風が生まれ始め、後水尾天皇を中心とする大規模な文化サロングループが創造されています。

それは、祇園会、茶の湯、立花、美術、工芸など、自由で華美な活気にあふれた創造活動でした。

そして、その文化サロンは、主に宮廷人たちと町衆文化人たちによって結集されていたんですね。

たとえば、宮廷人からは、八条宮・智仁親王を筆頭に、青蓮院宮・尊朝法親王、烏丸高廣という面々と、町衆文化人からは、茶屋四郎次郎、角倉素庵、千宗旦、そして、あの本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)というメンバーを中心に形成されていたのです。

f:id:kouhei-s:20210427214948j:plain

町衆というのは、金融業、酒造業、貿易業などの新興産業を生業とするブルジョア階級の京都市民のことを指しています。

応仁の乱から京都市中を復興にみちびく中心的役割を担った存在も、彼ら町衆であり、潤沢な財力を背景にして独自の文化価値観を築きました。

この町衆文化から生みだされた著名人が、本阿弥光悦や俵屋宗達といった歴史に残る芸術作家たちです。

光悦と宗達は、のちの世に琳派(りんぱ)と呼ばれることになる、「時代を超えた装飾画家たちによってカテゴライズされたひとつの流派、画派」のパイオニア的存在でした。

彼らは、土佐派や狩野派という当時の日本画の主流派や、宋とか明という外来文化の権威からは、全く解放された新しいデザイン世界を創造したんですね。

本阿弥家を守ったひと

本阿弥家は刀剣の鑑定と研磨、浄拭を家業にして足利将軍家に仕えた名家でした。

七代目・光心の長女として生まれたのが、妙秀(みょうしゅう)という光悦の母親にあたる女性で、片岡家という同じく名家からの次男坊を養子に迎えます。

つまり本阿弥家に夫として迎えたということであり、のちに「刀脇差の目きき細工並びもなき名人」と語られた光二という光悦の父親です。

ですが、この名人・光二の時代に、本阿弥家がお家とりつぶしになるかもしれない危機的な事件が起こっています。

f:id:kouhei-s:20210427215053j:plain

 

その事件は、伊丹城主だった荒木村重が謀反をおこし信長に討たれたときに、村重の所持していた名刀が市中に流出してしまったことをきっかけに始まりました。

その名刀は、まわりまわって、光二の手元に置かれることになったのですが、それを妬んだある男が、光二が村重と企みを抱いていたらしいと信長に讒言したのです。

勿論、信長もそんな単純な思考の持ち主ではないので、男のことをすぐに信じる訳でもなく、最初は静観していましたが、なにしろ光二が「身に曇りなきことは天道御存じなるべし」と言って引きこもってしまったのです。

信長からしたら、「御存じなるべし」と言われても、ちゃんと否定してもらわないと、皆の手前、ひじょうに厳しい態度で臨まなければならなくなり、結果、事態は深刻なものとなっていくのです。

そして、そうこうしているうちに、加茂山で鹿狩りをしていた信長の馬の口に、ひとりの女が突然駆け寄っていくという事件が起こることになります。

そう、そのひとりの女というのは、「夫は落ち度もなしにご勘気をこうむっているのです」と必死の形相で迫る光二の妻である妙秀でした。

そのあまりの迫力に、あの信長が、「わかった。わかったから、もういいから」と、思わずたじろいでしまうほどの気迫だったようです。

本阿弥家のひとたち

光二と妙秀は、二男二女、合わせて四人の子を育てましたが、妙秀が子供らに常にきびしく言い聞かせていたことがありました。

「我が家は、二百石の禄を賜り、お父さんの仕事のおかげで、よそさまより少しばかり裕福かもしれない。でも、富むほどに欲しがるのが世の中というものです。きりがないのだから、決して金銀、宝を望んではいけない」と。

人の心を深く静かに見つめ、無私の生き方を貫く、この偉大な母に育てられた長男の光悦は、「小者ひとり、飯炊きひとり」と簡素な暮らしを続けながら、書、楽焼、茶、蒔絵、出版までと、まさに日本のダビンチとしてマルチな才能を発揮しました。

f:id:kouhei-s:20210427215219j:plain

その才能に惚れ込んだ家康は、美と信の理想郷を、そなたの手で造り上げてくれないかと、いま光悦寺のある洛北・鷹峯の地、東西二百間(360メートル)南北七町(760メートル)の広大な土地を光悦に与えました。

それは、宮廷文化サロンの理念を持ちながら徳川家に出資されるという、誰も真似ることはできない、そう、彼だけが成しえることのできた空前絶後の芸術村が誕生した瞬間だったのです。

f:id:kouhei-s:20210427214739j:plain

そして、姉妹の一人は中立売小川の呉服商「雁金屋」(かりがねや)に嫁ぐことになったのですが、そのとき雁金屋は、「ことのほか貧しき」と界隈で評判の貧乏商人だったのです。

だから、「うかうかと仲人の口車に乗ってしまった。娘は貧乏に心中苦しんでいるにちがいない」と、父親の光二は悔やんでいました。

それを聞いた妙秀は、「あんた、何言ってるんだい。雁金屋の婿は正直者で親孝行な男なんだよ。時代遅れなところはあるんだけど、人の心を見つめ続けるいい男なんだよ。だから、嫁に出したんじゃないか」と、笑いとばしたのです。

その雁金屋は、後に、朝廷や徳川家に重宝されるまでの屋号となって、莫大な財を築き上げることになるのですが、さらに、この家から生まれた尾形光琳・乾山という天才兄弟が、およそ一世紀後の日本美術界を一世風靡することになるのです。

光悦・宗達から100年のときを超えて琳派を受け継いだ尾形光琳。

琳派とは、光琳の一字からとってそう名付けられたんですね。

 

www.kouhei-s.com