兄はなぜ怒っているのか
文治元(1185)年、源頼朝の密命を受けた土佐坊昌俊(しょうしゅん)が京へと向かっていました。
目指すその場所は、現在の西本願寺の近くにあった源義経と恋人の静、その二人が住む邸宅です。
このとき義経は、実の兄である頼朝から絶縁宣言をされ、鎌倉へは二度と戻ってくるなと命を受けていました。
義経を亡き者にしようと、ついに頼朝は昌俊を刺客として京に送り込んだのです。
ところが、義経の直近である約200名の家来たちというのは、非常に優秀な者たちが揃っていましたので、そう簡単に、頼朝の思惑通りにはならなかったんですね。
直近の一人である江田源三(げんぞう)がいち早くこの異変に気付き、街中に潜んでいた刺客の昌俊を見つけ出し、すぐに捕らえてきました。
ですが、義経はどこか半信半疑だったのでしょうか、兄が本気で自分を殺しにくるとは今だ信じられず、昌俊をすぐに釈放してしまったのです。
「兄者はいったい何を怒っているのだろうか」
義経には、頼朝がなぜ激怒しているのか、理由がさっぱりわからなかったのです。
最強の家臣たち
そしてその夜、刺客が襲ってきたことなど、どこふく風で、義経たちは邸宅で酒盛りをはじめだしたのです。
飲めや歌えやの大騒ぎとなり、ついに義経は豪快に酔いつぶれて寝てしまうのです。
案の定、気が付けば、昌俊率いる100騎の軍勢に邸宅の周りは取り囲まれていました。
その時、邸宅には喜三太(きさんた)という家来だけしか残っていませんでしたが、この喜三太の戦闘能力は凄まじく、ひとり、またひとりとメッタ斬りにしていくのです。
奥の部屋では、なかなか目覚めない義経に、静が「あんた、何してるんだい、はやく起きな!」と、大将が着用する大鎧を投げつけます。
「なんだ、なんだ」と義経が目覚めたころには、義経軍団の腹心たちも駆け付け、集まり始めていたのです。
この後、昌俊と100人の軍勢はあっという間に壊滅状態に追い込まれ、昌俊は捕らえられ打ち首になりました。
このように、あの武蔵坊弁慶を含む義経の200人の家来たちは、まさに、一騎当千の強者たちの集まりであり、戦いのセンス、つまり戦術のセンスにおいては天才といわれた義経によって統一された精鋭部隊だったんですね。
義経騎馬軍団
衰退していた平家を京から追い払ったのは頼朝と対立する木曾義仲ですが、さらに、その木曾義仲軍を倒したのが義経の精鋭部隊です。
義経たちはその後すぐに、京を逃れて福原(神戸市)の一の谷に砦を築いていた平家に戦いを挑むことになります。
一の谷は前方が海で、後方が六甲山のようなそこそこ高い山々が連なってる、天然の要塞のような場所でした。
だから平家側からすれば、前方の海だけに注意をはらえばいい。まず、後方の崖からは攻めてこないでしょうから。
しかも、その海には平家の所要する軍艦が並んでいるのですから、すっかり平家は安心していたんですね。
ですが、義経軍は平家に気付かれぬように、素早く背後の山に駆け上がり、そこから怒涛のスピードで斜面を下り、平家の背後から襲い掛かったのです。
なぜ、そのような神業の攻撃が可能だったのか。
そう、義経軍は日本でも珍しい極めて優秀な騎兵部隊だったのです。騎兵隊なんて珍しくもなんともないじゃないか、と思われるかもしれません。
たとえば、武田信玄で有名な「武田騎馬隊」。これは厳密にいうと騎兵隊ではないのです。
真の騎兵隊とは、大将から一兵卒まですべての戦闘員が騎乗していなければダメで、幹部たちだけが馬に乗っていて、下っ端の者たちが徒歩では騎兵隊とはいえないのです。
徒歩の兵たちを置き去りにすることは出来ないので、当然、騎兵の動きも人間が精いっぱい走る速度に合わせることになる。
まるでギャグですが、これでは、何のための騎兵なのか意味がなくなり、馬群を機動部隊として戦闘に利用するというその価値は半減してしまう。
「武田騎馬隊」を含め、この当時から戦国時代まで、日本のほとんどの騎兵隊がこれと似たようなものだったのです。
ですが義経軍は真の騎兵隊であり、200人すべてが馬に乗っているので、馬のスピードで移動することが出来たのです。
しかも、すべての戦闘員が卓越した馬術コントロールを身につけていました。
なかには、一人で2頭の馬を操る強者も数多くいたそうで、不意のアクシデントで他の一頭の馬が倒れても、宛がうことができる状態を保っていたのです。
自動車もオートバイもない時代、馬が走るスピード感覚がどれほどのものだったのかは、容易に想像がつきます。
大袈裟に言えば、JRA競馬が行う重賞レース、最終コーナーからゴール前まで飛んでくるあのスピードで、200頭の馬群が敵をめがけて突っ込んでいくのです。
ではなぜ、ほとんどの軍勢が騎兵と徒歩の混同した状態で形成されていたのでしょうか。
武士たちにとって、馬というのは本来は格闘用のものだったらしく、あくまでも一騎討の道具として重宝していたらしいのです。
駆けながら矢を放つ騎射の術や、馬上の組みうち術など高度な技術を持ったものも多くいました。
つまり、それが当時の武士たちによる、騎兵というもの対しての普通の捉え方だったのです。
だから集団による機動という思想を持ち、戦術として具体化したのはこのときの義経と、あとは、桶狭間のときに騎兵隊で奇襲した織田信長ぐらいだったんですね。
戦いの日々は続く
一の谷の敗北で平家は破滅的状況に陥りましたが、さらに、源平戦いの舞台は壇ノ浦へと移ります。
この戦いはあくまでも海戦であって、義経軍の得意とする騎兵機動はなんの役にも立たないのです。
それでも、義経はこの戦いに勝利し、平家の息の根を完全に止めることに成功しました。平家が最も得意とする海戦であったにもかかわらずです。
一の谷などのこれまでの戦下状況を見据えていた第三者の武士団たちは、もう平家の時代は終わったんだなと、うすうす感じていたのでしょう。
だから、伊予・紀伊などの大規模な水軍のように、ほとんどが平家から源氏の味方へと変わっていくことになったんですね。
これによって義経は、これまで持つことのなかった艦隊までも、その手に掴むことが出来たのです。
それまで頼朝の命により、源範頼(のりより)など代官として複数の武将が平家打倒に派遣されましたが、すべてが敗北の連続でした。
それがどうでしょう、苦悩する頼朝が義経を抜擢した途端に形成は大逆転するのです。
わずか一年半あまりの間に義経は木曾義仲を倒し、平家を滅亡させたのです。そう、義経とは歴史的な軍事的天才であり、非常に稀有な存在なのです。
ならば、そこまで鎌倉幕府のために貢献した義経を、兄の頼朝はなぜ絶縁しなければならなかったのでしょうか。
頼朝が目指した世界
もともと公地公民制(全ての土地と人民は天皇に帰属する)だった日本の制度を崩したのは、荘園という形で土地の所有化を進めた貴族の藤原氏だと言われています。
荘園とは開拓地であるのに、貴族たちには私有が認められ、武士がいくら土地を開拓しても正式な所有者にはなれなかったのです。
こんな理不尽がまかり通る世に対して不満を抱く武士たちを団結させ、朝廷に訴えかけて、見事に武士の土地の所有権を「地頭」という形で認めさせたのが源頼朝なのでした。
いや、血統を持つ頼朝を担ぎ上げ象徴とせしめた、北条氏をはじめとする東国の豪族たちといえば良いのでしょうか。
ただ、あくまでも征夷大将軍となった頼朝は武家の第一人者であり、武家の利益を代表する存在であることに間違いはない。
武士が忠義を尽くす対象というは将軍でしかありえないことで、間違っても朝廷側の命令に従うものがあってはならないのです。
そんなものたちが次々と出てきたら、幕府の存在などすぐさま崩壊してしまうからです。
ところが、戦いに勝利し京都に凱旋した義経は、頼朝の許しを得ることもなく、朝廷から勝手に官位を受け取るのです。
自分自身これだけの働きをしたのだから、官位のひとつやふたつもらって当然だよ、という思いが義経にはあったのでしょう。
でも、これがまずかった。官位を与える権限はあくまでも後白河法皇にあり、義経の所属する幕府ではないのです。
頼朝の怒りは凄まじいものでした。頼朝の承認を経てから、官位をもらうというのがこれまでのルールだったのですから。
武士たちによる武士たちのための国、目指すところは京都の朝廷に干渉されない完全な独立国家を目指さなければならない。
そのためには、賞罰や人事権は幕府独特のものを持つことを目指さなければならないのです。
それがこともあろうに、身内の弟が朝廷から褒美をもらってしまったのです。
義経のとった行動は、必死になって武家政権を築き上げようとする頼朝の思いを踏みにじる行為だったんですね。
歴史的な天才戦術家であった義経も、頼朝の目指す戦略を最後までよく理解できなかった。まあ、人とはそんなもんなのでしょうか。