京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

元離宮二条城 この国に遺された最後の御殿 その障壁画とは 

唯一 遺された二の丸御殿

権力の転換、その確認を明示するかのように、都に、突如出現した葵の城、二条城。

慶長8(1603)年、すでに解体されていた豊臣秀吉の聚楽第に対抗するかのように建てられたこの城は、まさに、京都における徳川家の拠点のひとつでした。

拠点のひとつといっても、知恩院、南禅寺など、徳川家カラ―を残している寺院などとは規模が異なり、やはり、ここ二条城には特別な存在意義が感じられます。

桃山時代には城郭造営が発展をとげ、時代の記念というべき天守閣を中心に、本丸御殿をはじめ多数の殿館が建ち並びました。

ですが、安土城、伏見城、大坂城など天下の覇者たちが創り上げたその名城たちは、二条城を除いてすべて現存していません。

そう、二条城の二の丸御殿だけが、寛永期からの「御殿」という形式をそのままに見ることの出来る日本で唯一の殿館なのです。

その御殿の特徴とされる「書院造」は、室町時代の中期あたりから足利義政によって整え始められ、桃山時代にいたって武家の邸宅様式として完成されていきました。

平安時代の「寝殿造」と相反するその特色は、生活空間のさまざまな機能を各諸室に分化させたところにあります。

床の間・違い棚・付け書院・帳台構が装備された主室が接客空間とされた、まさに、公私にわたる生活機能に応じた新しい時代の建築様式だったのです。

そして注目すべき花形の場所は、なんといっても公式儀礼の対面の場である大広間です。

主の座をめぐる上段を設けて座敷飾りが完備され、これに続く中・下段、そこからニの間以下にわたって、訪れる者の序列に対応する諸室が展開されています。

また、そこに演出されている黄金の意匠を基調とした格天井を含む障壁画は、居並ぶ人々を視覚的に圧倒させる効果を発揮します。

主の威光を象徴させるかのような金碧の障壁画に囲まれた光輝く空間。 それこそが、大広間には欠かせない要件だったのです。

隔世遺伝で引きつがれた画才

寛永3(1626)年、後水尾天皇の行幸を迎えるにあたり、二条城は大改築が行われました。

この時、天守・行幸御殿・本丸御殿・二の丸御殿が新築されたのですが、行幸御殿は行幸が終わると用済みとなり御所に移築されます。

天守は寛延3(1750)年の落雷により焼失、本丸御殿は天明8(1788)年の火災で類焼しましが、二の丸御殿だけは奇跡的に残ります。

天明の大火災というのは、京都市内の中心エリアが徹底的に焦土と化すくらいの大規模な災害だったのに、本当に、よくぞ残されたものです。

実際、同じ敷地内の本丸御殿がすぐ傍で焼け崩れているのに、二の丸御殿だけは被害を免れたのですから。

寛永の大改築で新築された二条城すべての御殿の障壁画を制作したのが、朝廷・幕府という天下の支配層と固く直結していた狩野派です。

室町時代中期より400年にわたって、国家プロジェクトの障壁画制作を血族で一丸となって独占してきた狩野一族。

少し前の信長・秀吉の時代に活躍した狩野永徳という天才画家の出現によって、画壇のリーダーとしての地位はますます高まる一方だったんですね。

そして、ここで二条城・障壁画制作チームの中心となった人物が注目されます。

そう、その永徳の血を引く、突出した才能を隔世遺伝で引き継いだといわれた、孫にあたる狩野探幽(たんゆう)です。

このとき探幽は若干25歳でしたが、個別の作品を描いただけでなく、制作リーダーとして各御殿の総合プロデュースも手掛けていたんですね。

大広間「四の間」を描いたのは山楽だった

二の丸御殿の間取り構成は、遠侍から式台の間、そしてメインの大広間、黒書院、白書院と連なり、それは奥に進めば進むほどプライベートな住居空間となるように構成されていました。

探幽が障壁画制作を担当したのは、やはり、最も重要な間であった大広間、そして式台の間でした。

ただ、大広間の「四の間」だけは、京狩野の重鎮である狩野山楽(さんらく)の作品ではないかと美術史家たちの間で疑問視されていたのですが、やはり、2022年現在の時点で、大広間「四の間」の障壁画は山楽の作品であると元離宮二条城事務所は断定されているようです。

探幽の新しい手法

そして探幽が描いた大広間の「一の間」「二の間」「三の間」の画面構成をよく見ると、ある共通点があることに気づかされます。

それは、室内の長押下の襖絵や壁貼絵の画面にとどまらず、長押上の小壁にも共通の統一モチーフを用いることにより、まとまった大構図を長押の上下にわたって描いているということです。

たとえば、巨大な松の一株を長押や柱を突き抜けながら描き、北面なら北面の壁面スペースすべてを使って1本の松樹を描ききっているのです。

ただし、大画面を処理しながらも画面全体、壁全体からの大枠からは決してはみ出ないように、その枠内に画様を抑え込む制作態度をとっていることは見逃せません。

大樹が画面の天地枠を突き破るような激しい動勢を示す描き方、そう、祖父の永徳が得意とした桃山時代の手法様式は取り入れていないのです。

自由奔放に躍動できた桃山時代に好まれた、広い世界を希求して画面の枠から飛び出していこうとするかのような制作表現は、もはや、消え去りつつあったんですね。

【大広間「三の間」北側、「四の間」境】障壁画

わかりやすい例として、上の写真を見ていただきたのですが、左方の壁貼絵四面と右方の襖絵四面(写真では3面しか見えない)からなり、特異なL字形の大画面で構成されているのが分かります。

この変形の画面枠のなかで、探幽は巨大な松樹を二つの幹に分けて構図を支える形を描いています。

つまり、巨松を屈折させて、かかる枠内におさえこむ手法をとっているのです。

祖父から継承した、覇気満々のエネルギッシュな筆で、ダイナミックに、そして華麗に描き上げていく手法。 それだけでは自身の作品表現をさらに高みにもっていくことは出来ない。

探幽が導き出した答えは、描写性よりも、金壁大画面のスペースに見事に適合した、いわば計算されつくした対象の「フォルム」を重視するというものだったのです。