清水寺 【王城の守護神 田村麻呂】 明日を開く鍵 信じる言葉はあるか

征夷大将軍・坂上田村麻呂

清水寺が国から公認されたのは、805年のことです。できたばかりの平安京では、寺院の新設・奈良からの移転は禁じられていましたので、国家公認の東寺・西寺以外の寺院はありませんでした。

清水寺だけが例外的に、特別に認められたのですが、それは、王城の守護神と呼ばれた征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が建立したものだったからです。

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多賀城(宮城県多賀城市)までしか及んでいなかった国家の支配を、志波城(岩手県盛岡市)にまで北上に拡大させるなど、武人として律令国家の支配地を大きく広げた田村麻呂は、軍事的貢献が大きく、民からも英雄視されていました。

ですが、この時、敵方にあった蝦夷(えみし)とよばれた東北地方の民族は、律令国家に服従しない集団・社会というだけで、単に政治的・軍事的に支配下に入っていなかっただけです。

国は夷狄(いてき)とみなしていましたが、反対の立場からすれば、自立・独立した伝統的な歴史と文化をもった集団なのです。

あくまでも勝利した側が正義であり、狄勢力を鎮圧したものは歴史的英雄になる。それが、古代のこの時代では常識のことであり、誰も疑うものは存在しなかった。でも、それを成し遂げた田村麻呂の心境は本当のところ、どうだったのでしょうか。

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田村麻呂 延鎮との出会い

ある日のこと、京都・東山の滝が流れる鬱蒼とした森のなかへ田村麻呂は向かいます。子を身籠った妻・高子のために、薬となる鹿の生き血を求めてのことでした。そこで、大和群八多里から東山に水を求めてやってきた苦行者の延鎮(えんちん)という僧に出会います。

山林修行者であり堂々たる貫禄と霊力高い徳をもつ延鎮に、田村麻呂は尊敬の念をすぐに抱きました。

そして、田村麻呂からこの東山にきた理由を聞いた延鎮はこう言いました。「それは、あかんやろ~、自分らのことしか考えてへんやん。生きとし生けるものは皆な大事にせんと。どんだけ相手側を思いやれるか。世の中、それがすべての鍵やで、やっぱり。」

その言葉を聞いた田村麻呂は、たちまち仏心が起こり、鹿を殺そうとしている自分に対して激しい懺悔の心が芽生えたのです。家に帰って高子に話すと、彼女も深く懺悔して、二人の家を寄進して寺を建てたいというのです。

田村麻呂と妻は、一体の千手観音を造らせ、二人の寝殿をその東山の地へ運び寺にしました。これが清水寺の始まりなのです。あくまでも、私寺としての始まりであり、勿論、この時点ではまだ国には公認されていませんでした。

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それからまもなく東国に大乱が起こり、桓武天皇は田村麻呂を征夷大将軍に任命します。田村麻呂は延鎮に言いました。「私は勅命を受けて蝦夷征伐に向かうのですが、生死は定め難く不安もあります。どうか私のために国家安泰を祈ってもらえるでしょうか。」

そう、武将にはやはり信仰が必要なのです。信じる言葉、信仰なくして人は勇猛果敢に戦うことは難しいのでしょう。

延鎮は武将・坂上田村麻呂に言いました。「お前こそが毘沙門天の化身。この国の、いやすべての民を守護するために、お前は世に降りたのだ」

阿弖利爲(アテルイ)と母禮(モレ)

長く続いた蝦夷征伐の戦いが全面的な終結に向かったのは、802年の阿弖利爲(アテルイ)と母禮(モレ)の降伏でした。田村麻呂は二人を京都に一度入京させて、再び胆沢へと帰し、管の支配下に取り込み置き蝦夷を管理させようとしました。

ですが、軍部や公卿は受け入れず、入京させることなく河内国椙山で、アテルイとモレを斬りすてたんですね。

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蝦夷は平定され、田村麻呂は無事に京都へと戻ります。彼は、まず清水寺の観音を拝し、延鎮に「おかげさまで、無事に乱を平げることが出来ました。」と報告したのです。

田村麻呂もアテルイたちも、歴史と文化を守るために、胸に信じる言葉を抱いて激しく戦い続けてきました。現在、清水寺にはアテルイとモレの慰霊塔が建っていますが、長い間賊将とされていた彼らを見直そうとする、歴史の動きがそこにはあるのだろうと思います。