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宇治平等院で命尽きた源頼政  「遅くはないさ、はじめればいい」という口ぐせ

その大義名分

治承4(1180)年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に対し、平家追討の令旨(りょうじ)を出しました。

令旨とは、皇太子や親王の命令を記したものですが、上皇の命令である院宣(いんぜん)や、天皇の命令である勅(ちょく)よりも格は下がります。

ただ、以仁王は天皇の子であるのに「親王」ではありませんでした。

以仁王の兄である守人(もりひと)親王も、弟の憲仁(のりひと)親王も、一度は天皇の位にまで就いているのに対して、次男の以仁王だけが親王にすらなれていないのです。

 

その不遇の以仁王に「今こそ平家を討つべきだ」と追討令を出すように説いたのが、清和源氏(武家源氏)の最有力者であった源頼政(よりまさ)です。

平家の独裁に対する諸国の源氏たちの不満は、もはやピークに達している。今、皇族のしかるべき人物が追討令を出せばその大義名分に彼たちは必ず立ち上がると、説得にあたったのです。

平家からすれば、この頼政の謀反の動きは全く想定できないものでした。

なぜなら頼政は源氏姓ではあるものの、あくまで(平家側)として保元・平治の乱で活躍し、その誠実な人柄を含め、平清盛から絶大の信頼を寄せられていた人物だったからです。

唯一、源氏のなかで従三位という高位に登った頼政は伊豆国の国主でもあり、平家との協調路線を常に歩んでいたんですね。

平家政権という違和感

ではなぜ、源三位(げんざんみ)頼政は以仁王を担ぎあげて、清盛の地位に取って代わろうとしたのでしょうか。

おそらく時代の風の流れが変わるような予感、そう、平家の衰退のきざしのようなものを彼は感じていたのかも知れません。

もともと、長くこの国を支配してきた公家、特に藤原摂関家というのは、武家全体にとっては恐れ多い雲の上の存在でした。

いわば、その公家たちから武力を持って政権を奪い取った平氏の行いというのは、この時代までの大きな歴史の流れから見ると特殊なケースであり、平氏たち以外の武家たちには、どこか違和感が付きまとっていたのでしょう。

さらに、平清盛が行った、娘を天皇に嫁がせて生まれた子供を天皇にする、という権威獲得のやり方は藤原摂関家と全く同じ手段であり、いいかえれば、清盛は武家でありながら太政大臣になるなどして、平家を「公家化」しようとしていたともいえるのです。

この時代、恐らく、現代社会に生きる私たちには上手くイメージを捉えることが難しいといえるような明確な身分の区分があったのでしょう。

武家たちの公家に対する身分的コンプレックスは相当なものだったに違いありません。

だから、身分の壁を越え、殿上人となって公家たちをひれ伏させた平清盛という人物は、やはり、歴史的な革命児といえます。

天下を掌握した清盛は皇族の継承問題にまで干渉できるほど力をつけていました。

平家の血を引く憲仁親王を高倉天皇として即位させ、憲仁の兄である以仁王を親王にすらなれないように仕向けていたのです。

でも、平家はどこまでいっても武家なのであり、皇族や公家のような生粋の王党血統ではないのだという事実は消えません。

源氏をはじめとする全国の武家たちは、自分たちと同じ身分の平家が天下を支配しているのならば、隙あらば、我らが取って代わって何が悪いのだと、当然考えるようになるわけです。

頼政75歳 それでも遅くはない

 

打倒平家のために、各地に身を潜めている源氏一門を目覚めさせるために、頼政はあらゆる手を尽くします。このとき、頼政75歳でした。

そして、源氏が追いやられてからずっと熊野に籠っていた源行家(ゆきいえ)を呼び出して、謀反を起こす旨を源氏にふれ広めさせる役目を与えます。

すっかり憔悴して不安がっている行家に頼政はこう言いました。「大丈夫、心配するな。・・・ まだ遅くはないさ、ともに立ち上がろうぞ」と。

この言葉を受けた行家は、まず甥である頼朝の説得にあたり、さらに、各地に散らばっていた源氏への呼びかけのために、常陸や信濃へと奔走したんですね。

でも、この頼政のクーデターの計画はすぐに平家の知ることとなり、宇治橋の死闘が始まりました。

宇治橋のたもとに着いた平家軍は2万8千騎。それに対して以仁王の軍勢はわずか千人あまりだったのです。

追い込まれた頼政は左の膝を射られ負傷しながらも、なんとか以仁王を奈良へと逃がし、自ら盾となって平家軍を塞ぎ止めます。

そして平等院の境内に逃げ込んだ頼政は、もはやここまでと、釣殿で自害し果てました。

奈良を目指していた以仁王の兵は僅か30騎となってしまい、光明寺の鳥居前で平家に囲まれ、雨のように降り注ぐ無数の矢をあびて以仁王は射殺されてしまうのです。

清盛にとって、この頼政の反乱は衝撃的なものでした。最も信頼していた頼政でさえ謀反を起こしたのかと。

清盛の怒りは凄まじく、各地の主要人物となる源氏たちを全て皆殺しにしろという内容の追討令を発します。

追い込まれた源頼朝や木曽義仲たちは、一か八か挙兵を決心するしか選択肢がありませんでした。まさしく「窮鼠猫を嚙む」という状態です。

そして、これが結果的に「戦の天才」と呼ばれたあの源義経を歴史の表舞台にあぶり出すこととなり、平家自身への滅亡へと繋がっていくことになるのです。