こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

二条城  平安京から生まれた京都市という都市の本質

公武和合の舞台

大坂夏の陣、冬の陣が始まる少し前の1603年頃に、幕府本営・二条城は完成しました。

徳川家が上洛する際の宿所として造営されたこの城郭から、家康は戦場へと出陣しているんですね。

その後、1626年に三代将軍・家光が後水尾天皇を迎えるために二条城の大改修を行います。

つまり、寛永行幸ですが、家光は二条城へ天皇を招き入れ、公武和合の政策を天下に示したのです。

ところが、幕府が巨額の費用を注ぎ新装した二条城は、それから200年以上、たった一度も使われることはありませんでした。

4、50人の二条在番という留守番たちが暇をもて遊ぶ平和な日々が、ただ流れていたんですね。

幕末に徳川慶喜が来て、並ぶ大名たちを前に、その大広間で大政奉還を奏上する歴史的ステージとなるまでの長い間、まるっきり放置されていたのです。

そして、そのすぐ後に、明治維新を経て二条城は朝廷のものとなってしまいました。

二条城が元離宮と呼ばれれているのはその為なんです。そして現在は京都市の管理下のもとにあります。

京都市という街のアイデンティティ

これだけの大規模の城郭が全く放置されていたという、その「使われなさ」というのは本当に凄いことなのですが、そのお陰で非常に貴重な文化遺産が残されることになりました。それが、狩野派という絵師集団が描いた障壁画です。

城郭建築の御殿と、これだけの大規模の障壁画が現存されているのは、日本中で、もうここ二条城だけなんです。

先の大戦のとき、大阪市や名古屋市という大都市とは違って、京都市に爆弾を落とされるということは、ほとんどありませんでした。

当時の京都市に住む主婦たちは、B29戦闘機が上空を飛んでいるのを物干し台から眺めながら平然と洗濯物を干していたんですね。

そのママ友たちは自分たちの家やご近所に爆弾が落とされないことを直感的に信じていた。もちろん、それは歴史ある寺社建築群が存在していることを意識していたから、なんていう理由ではありません。

1000年という気の遠くなるような歳月の間、王朝(天皇家)を抱き続けてきた京都市という街のアイデンティティを、そこに暮らしている住民として本能的に感じ取っていたからなのです。現実的には、たとえ、この時点で東京に皇居があったとしても。

アメリカという国家からすれば、私たちなんて、資源の乏しいちっぽけな島国の人間たちだったのかも知れません。

それでも、その黄色人種たちに対して、何を侵せば、何を踏みにじれば死に物狂いで抵抗してくるのかを、彼らは、ちゃんと認識していたに違いないのです。

隔世遺伝

そんな歴史的背景事情により守られた国宝・二の丸御殿。そこには、狩野派の画家たちのよって描かれた3600面の障壁画が残されています。

幕府御用達の絵師集団・狩野派というのは、初期の正信の時代である室町初期から幕末まで血縁が400年続いていました。

400年も一つの家系が続いている絵描きの家なんて、ヨーロッパ諸国を探しても例がありません。それぐらい狩野派はこの国で独占体制を確立していたのです。

その狩野派の長い歴史のなかでも、スーパースター的存在であったのが狩野永徳(えいとく)です。

信長・秀吉に重宝された永徳は、安土城や大坂城、聚楽第の障壁画の制作にあたっています。

永徳の作品群からは、後にいくつもが国宝に指定されることとなるのですが、彼は、わずか48歳という若さで夭折しているんですね。

そして、その永徳の孫である探幽(たんゆう)こそが、二の丸御殿・障壁画制作プロジェクトの統括責任者なのです。

隔世遺伝によって、永徳のその卓越した画才を引き継いだ探幽がこの仕事を請け負ったのは25歳のときでした。

祖父の永徳が早くに過労死してしまって、さらに、お父さんも若くして死んでしまうので、残された探幽は一族の期待を一身に背負っていたわけです。

11歳のときに駿府で家康に謁見し、そのあと江戸に行って、秀忠の前でさらさらと素描画を描いてみせて驚愕させたといいます。

そう、徳川家からの請負仕事を少年の頃から託されていた探幽が二の丸御殿の障壁画を指名されたのは当然の流れだったのでしょう。

若社長・探幽は総勢100名の絵師集団を引き連れ、本拠地としていた江戸から京都・二条城へと向かいました。