金閣寺  義満の黄金趣味の極み 水面に映る 曇りの日

舟を浮かべて盛大な宴

金閣といえば派手で強烈な光を放っているイメージがありますが、実際に境内へ足を踏み入れて眺めてみると、優しく気品ある光に包まれています。

手前の鏡湖池に写しだされたゆらゆら揺れる姿は、何か夢の世界を訪れたような幻想を抱かせてくれます。

また、季節や天候によって様々な美しい姿を魅せてくれるのですが、晴れた日よりも少し曇りがちな日のほうが、手に取れるように水面に映し出されている感じがするのです。

金閣を築いた足利義満は、この鏡湖池に舟を浮かべ、その上で盛大な宴を催していたといわれています。

日本国王が築き上げた金殿玉楼が建ち並ぶ場所

足利義満の時代、足利幕府はその全盛期を迎えていました。

義満が「日本国王」を自称しながら、晩年には、みずからを法皇に見立てる行動をとっていたことは有名な話です。

足利将軍が京都に腰を落ち着けて治世を行えるようになったのも、やはり三代将軍の彼の時代からなのです。

応永元(1394)年、将軍職を子の義持にゆずった義満は、北山殿の造営にとりかかりました。

金閣とは、その中にあるひとつの建物です。その北山殿には「母体」がありました。

それは、鎌倉時代の公家である西園寺家が造営した邸宅があった場所です。

当時の日本での最高邸宅であり、藤原道長の法成寺よりも豪華絢爛だったと伝わります。

義満はその跡地に、それよりも、さらに金殿玉楼が建ち並ぶ北山殿を築き上げました。

室町時代の僧侶の日記「臥雲日件録」が、当時の様子を詳細に伝えているのですが、それによると、楼閣は夜空の星のように点在し、その華やかさは天より降り、地より湧き出たようであったとあります。

義満が応永15(1408)年に51歳で急死すると、北山殿は義持によって一部を除いて取り壊されます。

堅実主義の義持にとって、権力の象徴のようなこの敷地は不要だったのです。

遺されたのは舎利殿である金閣とわずかな建物のみでした。そして、義満の遺言により本堂が建てられ鹿苑寺という禅寺になりました。

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京都の町衆を驚かせた黄金の楼閣

舎利殿(金閣)は当時から注目を集め、室町幕府の衰退を描いた「足利治乱記」によると、「このような建物は見たことがない。壁に金箔を貼っているので京童はこれを金閣と呼んでいる」といった内容が描かれていました。

(金閣)とは京都の町衆が名付けた呼び名だったのです。

義持の取り壊しによって、遺されたわずかな建物も応仁の乱によって消失しましたが、金閣だけは奇跡的に火災をまぬがれました。

その後、長い間、京都の町衆は金閣を特別な思いで見守ってきました。

そして、昭和25(1950)年に国宝に指定されます。ところが、その直後、火災によって消失してしまうのです。

昭和30(1955)年に金閣は再建され、皮肉にも創建当時の輝きを取り戻すきっかけになり、金閣寺の拝観者は以前よりますます多くなりました。

そして、昭和61(1986)年に金箔が貼りかえられ、平成15(2003)年には屋根部分にも金箔が施され現在の姿になります。

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黄金趣味の極み

義満は尋常ではない黄金趣味の人で、お供の者に金色の腰物をつけさせて厳島詣をし、付近の草木や葉までを金色に染めさせました。

さらに、北山殿完成後に後小松天皇の行幸を迎いだときには、早咲きの桜を植えさせたり、五色砂を敷いた上に金銀造花をまき散らす徹底ぶりでした。

北山殿の建物があらかた壊されたり、移築されたりしたあとも、義満の黄金趣味の極みである金閣は遺され黄金に輝き続けたのです。