京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

金閣寺  取りもどされた その輝き 目もくらむ光

風雨にさらされた黄金

戦前の旧国宝・重要美術品の再指定が行われたのは昭和25年のことでした。

いわゆる文化保護法が施行されて、それまでに指定されていた真偽が見直され、大幅に件数が減らされることになります。

そんな状況下でも、当然のごとく金閣は新国宝に指定されました。ところが、その直後に、放火により焼失してしまったのです。

だから金閣という建物は現時点で国宝ではないのですが、訪れる観光客の人たちに聞いてみても、燃えたことさえ知らない人のほうが、おそらく多いのではないでしょうか。

焼失から5年の歳月をかけて再建された金閣は、その後何度か補修され、昭和61年の大補修では当時7億円の資金が投入されています。

使用された金箔は20万枚で20キロ、昭和30年の最初の再建時よりも、約10倍規模でもって補修されているんです。

金のイメージ、それは成金的というか、どうしても経済価値の誇示の要素が全面的に出てくる気がします。

銀やプラチナだと高級感はあるけれど、経済価値の誇示にはつながりません。

なので、わりと多くの日本人の場合、金製品を手に入れたら、自分の家に大事にしまい込んでしまうのではないでしょうか。

でも、逆にそういう金をむき出しにして、風雨にさらされているのが金閣という建築物なんです。

言い換えれば、それが金閣を建立した室町幕府三代将軍・足利義満の発想なんですね。

放火される前の金閣は、それこそ創建から500年以上経過していて、古色に覆われ、当初の姿は想像できないような状態だったと言います。

でも、それはそれでよかったのでしょう。京都のほとんどの観光寺院の見どころというのは、白木に古色がついている、その風情を味わうというようなところにあります。

ですが一方で、再建された金閣というのは、古色など持ちえない、全く違った趣で訪れる人たちを魅了しています。

焼失し、再建されたことで、眩いばかりに光輝く金閣が復活し、結果として、義満の発想は後世に伝わることとなったのです。

中国人 義満

室町幕府というのは、足利尊氏が初代として開いた政権ですが、二代・義詮の頃までは勢力はまだまだ安定していない状態が続いていました。

三代目の義満の時代となって、はじめて足利氏は極めて強い力を持つようになり、国内では義満と対等に渡り合える武家は、もはや存在しなくなったのです。

それどころか、義満は天皇の位を棚上げにして、自分は上皇に、天皇の父になるために息子を天皇にしようとしたのです。

さらに、この時の義満の意識は、常に隣国である中国に向いていました。つまり、当時の明(みん)ですね。

実際に明と直接交渉をして、「日本国王」という国際的に通用する称号までもらっているのです。

義満の時代というよりも、それこそ卑弥呼の時代から、日本では中国人という言葉が大変な意味を持っていました。

これは今の単なる中国という意味ではなく、最先端に位置する「文明人」として憧れの存在だったからです。

そもそも中国という言葉自体が一種の観念的存在です。なぜなら、現実の王朝の名は「明」であったり、「清」であったり、もっとさかのぼれば「元」であったりするからです。

 

金閣は三層構造になっていて、いちばん下の一階は藤原風の寝殿造り、つまりそこに意識されているのは「公家」社会です。

そして二階は「武家」造りとなっていて、一階より、取って代わった新興勢力と位置づけされています。

もうおわかりですね、次の三階、その最上階こそが、中国風の禅宗仕上げで造られているんです。

足利義満という将軍は、その文明の中心たる中国(明)から、お前こそが日本人の代表であると認められた人物でした。

つまり、彼は日本人でありながら、自身を中国人という概念でとらえていたのではないでしょうか。

そう、この時代の日本人のなかで唯一、中国人に最も近い存在だったと言ってもいいかも知れません。