こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

東寺  そこにあるのはパラレルワールドだった

政教分離

794年に、国家権力の中枢として人為的につくり出された平安京。それは、政治的な意味を強く帯びた新政都市でした。

このとき同じタイミングで平安京に創建された東寺・西寺も、国家鎮護の目的だけで建てられたわけではなく、唯一この国で、公式に創り出され、認可されていた寺院だったのです。

それまでの奈良・平城京の社会では、多くの政治的矛盾をはらみ、政争と内乱を繰り返していたので、大仏開眼など仏教的霊験に頼らざるを得ない状況下に陥っていました。

そのために、玄昉・道鏡といった僧侶による政治的介入を許してしまうことになり、皇室の継承問題にまで関与させてしまうことになってしまうのです。

再び同じ過ちを繰り返さぬように、遷都を機に、桓武天皇は仏教界の政治的進出を許さず、徹底的に排除する方策を取っているんですね。

788年に根本中堂がすでに建てられていた比叡山・延暦寺ですらも、延暦の寺号を許されたのは823年のことで、これは最澄の歿した翌年のことです。

 

平安京というのは中国式の都市であり、基盤の目のように道路が広がり走っています。縦の道と横の道が直角に交わっているのです。

1200年前の都市構造をそのままに引き継いでいる京都市の中心部では、場所を説明するときに通りの名前を用いるのですが、たとえば「河原町二条上る」と言えば、河原町通りと二条通りが交差したところを北の方へ少し行ったところ、という意味になります。

つまり、道が座標軸のような役目を果たしているのですが、これは京都市内で、ずっと使われている指定方法なんですね。

その平安京の入口として、南の端に設置されていたのが、あの羅城門(らじょうもん)です。

黒澤明監督の作品で世界中に知られることとなった巨大な規模を誇る楼門であり、応天門、会昌門と共に、平安京の三つの重要な門とされていたました。

ちなみに黒澤映画のタイトルは『羅生門』(らしょうもん)ですが、羅城門というのが正式な名称になります。

その羅城門の左右に、都を守護する目的で寺が造られ、東側と西側にそれぞれシンメトリーに配置されていたので、東寺・西寺と呼ばれたんですね。

共に国家鎮護の官寺として建立されたのですが、西寺のほうは早くに衰退してしまい、現在では東寺だけが残されています。

曼荼羅(マンダラ)

官寺として始まった東寺が真言密教を信仰する寺院となったのは、823年に空海がこの寺を「教王護国寺」の名のもとに嵯峨天皇より賜ったからです。

嵯峨天皇と空海を強く結びつけたのは、まさに空海がこの国にもたらした密教なのでしょう。

密教は加持祈祷を宗教儀式の中心に置くものであり、なによりこの加持祈禱というのは、天皇や国家を危険にさらす怨霊の鎮魂に最も役立つものでもあるんです。

そして空海は、東寺の伽藍配置を当初のままに引継ぎながらも、内容を全く変えてしまいました。

西塔をつくらず、西塔の位置に真言密教において最も重要な建物である灌頂院を置いたのです。

さらに、薬師如来を祀る金堂はそのままに本堂とし、もう一つ、真言密教独自の「曼荼羅」思想が立体的に表現された21体の仏像が並ぶ講堂を造ったんですね。

「曼荼羅」というのは、多種多様に出現するとされている仏の位置関係や、勢力関係を図面にしたものです。

たとえば、たくさんいる如来のなかでも、誰が一番強い如来なのか、その最強の如来と他の如来との関係はどうなっているのかという疑問。

あるいは、その如来たちと、別種である菩薩・明王などの関係性を、どのように位置付けしてお祀りしたらいいのかと言った疑問が生まれてくるわけです。

そうした疑問に答えたのが「曼荼羅」なのですが、それを彫刻で、いわば立体曼荼羅にしたものが東寺の講堂に並べられたものなんです。

最高の仏

密教では常に、同じものでも二つの違う相があるという捉え方をします。

たとえば、不動明王は大日如来の化身であるという考え方もそうですし、この世界には、金剛界と胎蔵界という二つの世界があるという考え方をするのもその一つです。

金剛界と胎蔵界の見分け方は、仏様の並び方や、中央に位置する大日如来がどのような印を結んでいるかを見ることで分かります。

印というのは、手指を組み合わせて作る特定の手の相のことですが、東寺の大日如来は智拳印という印を結んでいます。

智拳印を結ぶ大日如来は金剛界の大日如来だと決まっていますので、東寺の立体曼荼羅は金剛界の曼荼羅が表現された世界だということがわかるんですね。

講堂のど真ん中に配置されている、曼荼羅世界の中心仏である大日如来。

それは、密教における最高の仏とされています。そう、密教では釈迦如来を最高の仏とは捉えていないんです。

なぜなら、釈迦如来はあくまでもわれわれが今住んでいる、一つの次元だけに現れた如来だと考えられているからです。

ですが、仏教というのは一種の多次元論ですから、同時並行して様々な世界があるということになっています。

その最も典型的なのが六道と言われるものですが、その他にも、三千世界という言い方をします。

これはどういうことかというと、世界はわれわれが住む世界だけではなく、目に見えない三千もの平行する世界があるということなんですね。

まさに、パラレルワールドといっていいでしょう。その三千もの世界それぞれに如来が出現しているのです。

釈迦如来というのは三千世界のうちの、たった一つの世界であるこの現世界に出現した如来にすぎないのです。

では、その三千世界のすべての根源である本当の意味を持つ如来とは何か、本当の意味での教えの根源のような如来の存在とは何なのか。

そう、それこそが真言密教の本尊である大日如来なんですね。

サンスクリット語で「マハーヴァイローチャナ」、「マハー」とは「大」という意味で、「ヴァイローチャナ」は「光り輝く」、ということ。

二つを簡略にして「大日」です。まさに、仏教では大日如来が常に最高の仏とされているんです。

ちなみに、奈良・東大寺の大仏殿にある大仏様は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)ですが、これは釈迦如来が大日如来に発展しようとする過渡期の仏像というべきもので、まさにこれから大日如来へと進化しようとする姿かたちが表現されているんです。