建物から飛び出している尾廊
宇治川のほとりから朝日が昇るとき、その眩い光が池の水面に当たり、反射してお堂の中を照らしています。
さざなみのようにキラキラ揺れる光を受けた仏像は、まるで胸のあたりで呼吸しているかのよう。
生み出された自然の光によって、阿弥陀如来坐像はまるで生命が宿っているように見えるのです。
そんな平等院・鳳凰堂は、宇治川の近く、この世のものとは思えない美しい極楽浄土を表現しています。
極楽の世界から舞い降りてきた、仁智があり、生枝を折らない鳳凰という霊鳥の姿に見立てられた鳳凰堂。
尾羽根のような尾廊が建物から飛び出しているさまは、今にも飛び上がらんとする躍動感に満ちています。
龍神に守られた鳳凰堂
永承7(1052)年、関白・藤原頼道によって平等院は創建されました。
それは金堂・五重塔・三重塔・釣殿・宝蔵・鳳凰堂などが立ち並ぶ巨大伽藍で形成されています。
古来から平等院のある宇治川のほとりは、京都の南の重要な位置をしめる防衛線でした。
そのため何か事があると、そのたびに平等院は兵火に焼き尽くされ、伽藍は何度も焼失を繰り返しています。
ですが阿字池と本尊・阿弥陀如来坐像のある鳳凰堂だけは、970年のときを経て、創建当時の姿を今も残しているのです。
まさにこの奇跡は龍神のおかげなのでしょう。龍神は水をつかさどり、火の手から仏法を守ってくれます。
戦火に襲われる苦難を、とめどなく受け続けても、一番大切な鳳凰堂だけは守り抜いてくれたのです。
古来より水の信仰の盛んな土地である宇治は、龍宮を模しているといわれてきました。
龍神とは河海の神であり、平等院の前を流れる宇治川の神格化なのです。
創建当時から頼道は、宇治の地こそが龍宮の出入口なのだと、権威の源を龍神そのものに求めていたんですね。
天才仏師 定朝
本尊・阿弥陀如来坐像は、平安期最高の腕を持った天才仏師と呼ばれた定朝によって造られました。
そしてこの時期の定朝は、仏師として円熟の極みに達していた頃だと言われていたのです。
この阿弥陀仏が端座している姿は、満月のように完璧な仏像だと評判になり、以降、この阿弥陀如来像を手本にして、京都では多くの阿弥陀仏が造られていくことになります。
また仏師定朝は阿弥陀仏を造っただけではなく、頼道と打ち合わせを重ねて、鳳凰堂の設計から阿字池の見え方や周囲の風景まで、トータル的な演出にこだわりながら、すべての空間プロデュースに関わったのです。
仏像というのはそれだけを捉えるのではなく、台座や光背、天蓋など、お堂全体が一体となってひとつの空間になっている。
トータル的に体感することによって、より仏像の美しさを理解することが出来るのだと定朝は提言しています。
鳳凰堂のなかには、同じく定朝が制作した雲中供養菩薩像52体が内壁の上方に飛んでいます。
これは仏界全体を飛び回っている何千何万という雲中菩薩たちが、定朝の視線カメラで押されたシャッターによって切り取り表現された場面に、たまたま52体写っていたというだけのことなのです。
はじまりは地蔵菩薩
仏師のカリスマのような存在だった定朝ですが、若き日の彼は三条大橋近くに住み、町の人々の注文に応じて地蔵菩薩を数多く制作していました。
じつはその制作活動が、京の都に定朝の名を飛躍的に知らしめることになります。
なぜなら、京都の庶民の信仰をもっとも集めているのは地蔵菩薩という仏さまだったからです。
そして、その地蔵信仰は、現在の京都市中にも絶えることなく脈々と続いているんですね。