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徳川家光によって再興され現在の姿になった観光寺院が京都ではなぜ多いのか

福運の姫君

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徳川二代将軍・秀忠の五女である和子が後水尾天皇に入内したことで、度々起こっていた公武関係の危機は、次第に回避されていくようになりました。

まさに、朝廷と幕府の平和への架け橋となった和子は、京都文化の復興にも大きな足跡をのこしています。

政治的な役割よりも、むしろ自身が宮廷の人となって、王朝の伝統を守り続けるという文化的役割を担ったのです。

京都における数々の巨刹の寺社は、江戸時代初期のこの寛永期にほとんどが再生されています。

それらは、東福門院・和子の意図に従った三代将軍・家光(兄)の名において復興されたのですが、その事実は、京都の歴史を理解する上で非常に注目すべきところなんですね。

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この時期の公家衆は、徳川幕府によって完全に政治の世界からしめ出されていましたが、その反面、幕府によって経済的な面を充分に保証されていました。

たとえば、摂家では近衛家の2865石から鷹司家の1500石まで、清華家では今出川家の1355石から醍醐家の300石まで、大臣家は500石ないしは200石といった家領が与えられています。

また、家領のない公家には、幕府からの御料を元とした朝廷からの歳米が支給されていたのです。

王朝の復古建築

そして、後陽成・後水尾天(上)皇の2代においては、多数の連枝や皇子女があり、後陽成院は25名、後水尾院においては33名の皇子・皇女が誕生されています。

幸運にも皇位や宮家を継承したり、あるいは降嫁の場合を除いては、その皇子・皇女のほとんどは仏門に入るのが通例でした。

そのため、親王が入寺する宮門跡や皇女が入室する尼門跡という格式高き寺院が、京都で増加することになります。

代々の皇子・皇女が入室する門跡寺院。それはもう、ある意味では宮家と同じです。

寺格はとび抜けて高くなり、それにふさわしい伽藍群が必要とされたのです。

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さらに、皇室の背後には、後水尾天皇の中宮・東福門院らの生家である江戸幕府の権勢があって、その経済的援助により、中世末の危機的状況にくらべてはるかに皇室の経済力は豊かでした。

皇室や幕府のこの援助により、近世前期の京都の寺社は一斉に復興にのりだしたのです。

それらの門跡寺院のほとんどが天台・真言の宮廷伝統の宗派に属する寺院であり、平安・鎌倉いらいの王朝系の巨刹で、戦国期に兵火によって破壊され荒廃にひんした寺々です。

言い換えれば、京都の歴史にとって重要な意義を持つ王朝の建造物が再興されているのです。

まさに寛永のこの時代、このような王朝文化の復興ブームが京都に巻き起こされたその理由は、徳川三代による平和の到来と寺院経済の安定にあったといえるのでしょう。

蘇る京都王朝文化

京都のシンボルといわれる真言宗古刹・東寺の五重塔。

承和2(835)年に建立されてから罹災と再建を繰り返してきたこの塔は、旧規を保持することにこだわり続けられ、その度に極力古代の様式を再現しようと努力されてきました。

五重塔は、後水尾天皇と中宮・和子の皇女である明正天皇の勅命で将軍・家光が再興させ、1644年7月落慶法要が行われたのです。

それから、京都の生んだ仏堂の名作である清水寺本堂。

主屋と左右翼廊との見事な調和、典雅な屋根の反転曲線によって、きわめて洗練された造形美を表現しています。

寛永の火災のあとの同10(1633)年に、平安時代以来からの、この大舞台造も家光によって再興されました。

真言宗古刹・仁和寺の御影堂および金堂、五重塔、八坂神社本堂、石清水八幡宮拝殿など枚挙にいとまがありませんが、いずれも寛永期の復興バブルによる建築なのです。

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寺社の伽藍群が建立され整備されるためには莫大な費用と長い歳月が必要とされます。

簡単に一年や数年で出来上がるものではなくて、数十年、いや時には100年の歳月を要するほど、寺観の最終的完成には膨大な時間と手間ひまがかかるのです。

それらを何十社も一気に再生させることの出来た寛永から元禄期という時代。

歴史を振り返ればまさに稀有な時期といえるのですが、それを可能にしたのが、後水尾天皇を中心とした江戸時代前期から長く続いた宮廷サロン文化の繁栄と王朝復興バブルなのです。

後水尾天皇から始まって、その血を受け継いだ皇子・皇女である明正・後光明・後西院・霊元と兄弟4代で続いた天皇、次いで皇孫の東山天皇までと、慶長末年から元禄時代におよぶこの後水尾皇統は、多数の門跡・尼門跡の直系連枝にかこまれ、その統宰は終わることを見なかったのです。