仁和寺  仁清と乾山 宮廷文化が生んだ きれいさび 京焼

御池と御室

代々天皇の皇子および皇孫が門跡という住職を務められた世界文化遺産・仁和寺。

神泉苑のある場所が御池と呼ばれるように、この古刹がある地域も御室と呼ばれてきたのです。

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寺であると同時に宮殿であるという性格を持つこの門跡は、全国の寺社を統率する総法務という職を任ぜられていました。

それは、当時の宗教界を支配していただけではなく、政治の世界にも強い影響力を持っていたことを意味します。

門前で咲いた文化の花

後水尾天皇の兄宮にあたる仁和寺二十一世門跡・覚深法親王は、徳川三代将軍・家光に直訴して、現在の伽藍を再建させました。

覚深法親王は、まさに仁和寺の中興の祖といえる存在であり、江戸初期における京都文化の興隆に尽力したのです。

そして、この復興のときに仁和寺は、京焼とよばれる新たな文化の花を咲かせます。

京都で焼き物を焼く風習は以前にはなく、陶器の産地は備前・瀬戸・信楽・美濃などに限られていたんですね。

楽焼や粟田口焼なども少しはありましたが、本格的な京焼が始まったのは、あるひとりの天才芸術家が現れたからなのです。

丹波国桑田郡から身ひとつで上京し、御室仁和寺の門前に窯を開いた野々村仁清。

古田織部の思想を引き継いだ茶人・金森宗和の強烈な支援、指導を受けて、彼はその才能を開花させます。

それは華やかな宮廷茶風

仁清が手掛けた京焼という名称は茶の湯の世界から生まれました。

後水尾天皇をはじめ、八条宮智仁親王・一条昭良など宮廷文化人を中心に育まれた、古典的伝統を基礎とする宮廷茶風。

それは、王朝の香り漂う華やかで整然とした美であり、金森宗和が「きれいさび」として、一つの茶風にまとめあげました。

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仁清の作品に見られる初期京焼の優雅な美は、宮廷文化人や宗和の好みと指導によって生み出されたのです。

そして、宗和を通じて、後水尾院、東福門院、そして仁和寺の覚深法親王たちに作品を選ばれるなどして、仁清の京焼は質量ともに目覚ましい発展をみせてくるのでした。

明暦2(1656)年「野々村播磨」と記念銘のある陶片がその後発見されて、仁清が開窯10年にしてその技巧を認められ、受領名を得たという事実が証明されています。

受領名の付与は大規模な門跡寺院の特権なのですが、仁清は仁和寺からその名誉を与えられます。

ここに、仁清の丹波焼は、野々村播磨となって名実ともに京焼の中心となり、御室窯の工房はたいへんな繁盛ぶりでした。

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その辺に転がっていたのです

やがて御室窯の技術は二代目・仁清へと受け継がれ、さらに尾形乾山の傑作品群へと発展させていきます。

東福門院のお気に入りの呉服商として巨万の富を誇った雁金屋が尾形家であり、乾山は何代かあとの三男です。

また乾山の兄は、俵屋宗達から100年のときを超えて琳派を受け継いだ、あの天才画家の尾形光琳なのでした。

乾山が住んでいた右京区の御室のあと地は、黄檗宗の法蔵寺という寺になっています。

ですので、昭和期には、この寺の境内から、乾山が焼いたと思われる陶器のカケラが頻繁に発見されました。

信じがたい話ですが、乾山作品の一部は誰にも気にされることなく、境内のあちこちに無造作に転がっていたのです。

訪れてきた歴史研究家たちはこれを目のあたりにして、大変おどろいた様子で言葉を失っていたそうです。

そして清水焼へと続く

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このように、仁和寺門前で飛躍を遂げた京焼はその後、東山山麓一帯へと場所を変え、次々と開窯されていきました。

それから、清水焼・八坂焼という名称が寛永末ごろに現れはじめ、元禄期にはすっかりその名を広く知らしめていくのでした。

東山エリアの陶工は江戸時代を通じて発展していき、江戸後期からは清水焼が急速に栄え、その伝統は今日におよんでいるのです。