1200年前から変わっていない東寺の所在地
真言宗総本山、東寺(教王護国寺)は794年の平安遷都にともなって建立された密教寺院です。823年に弘法大師・空海が嵯峨天皇より賜りました。
平安時代の雰囲気を今でも色濃く残していて、空海にまつわる数多くの貴重な文化財が、1200年にわたり大切に守り続けられています。
そして、京都市内のビル群の中に、五重塔が幽玄的な雰囲気でそびえ立っていて、その57メートルの高さは、現存する五重塔では日本一の高さを誇ります。
五代目の五重塔 家光の思惑
この東寺のシンボルともいえる五重塔ですが、初めて完成したのは空海入滅後の883年頃と伝わります。
その高さゆえに建立されてから度々の落雷にあい、現在ある塔は五代目の1644年に徳川家光によって再建されたものです。
京都ではこの家光の政権時代に再建された寺院は多く、それも、注目度の高い大寺院によくみられます。
この五重塔の他では、清水寺の本堂・延暦寺の根本中堂・知恩院の御影堂など、世界遺産も多く含まれ枚挙にいとまがありません。
権力はうつろいやすく民衆のエネルギーは巨大であることを家光は心得ていました。
徳川幕府の武威と権勢を、朝廷のある都の民たちに見せつけながらも、その民心をつかみ取らなければなりませんでした。
家光に必要だったのは、この国宝の建築群だったわけではなく、それを支持する民心だったのです。
たった一度だけ災難にあった伽藍
五重塔を除く東寺の中枢部の伽藍が焼けたのは、長い歴史の中でただ1回です。1486年、足利幕府の統治力の低下とともに、京都周辺でも土一揆が起こりました。
幕府の追求を逃れるために、東寺が持っていた守護不入の特権に目をつけていた反乱軍は、この頃、境内を本拠にすることがたびたびあったのです。
1486年8月24日、京都市下京区五条を中心に起こった徳政一揆で、民衆軍が東寺にたてこもったために、細川政元の軍勢が鎮圧に向かいます。
9月13日に境内で火災が発生し、金堂・講堂などほとんどの伽藍が焼失しました。
まるで時空を超えて現れた迫力の仏像群
この時、講堂には立体曼荼羅である21体の仏像が立ち並んでいました。空海によってつくられた、密教の世界を表現した凄まじい迫力の仏像群です。
このうち5体の如来と金剛波羅蜜多菩薩を除く、15体は奇跡的に焼失をまぬがれ国宝に指定されています。
一度焼けた大寺院を復興するのは、建築を新たに建造するよりも難しいことです。
東寺はこの火災のあと、ほとんど全ての伽藍が再興されましたが、配置もほとんど変わっていないので、歴史的に非常に重要な遺構といわれています。
そして、そんなふうに貴重な金堂や講堂がその後の人々によって大切に遺されたのは、きっと、偉大な弘法大師・空海、すなわち弘法さんを慕う民衆たちの気持ちが、いつまでも絶えることなく、そこにあったからなのでしょう。