絶賛された目録
唐から帰国していた空海が、やっとのことで、なんとか都にある高雄山寺(神護寺)に入れたのは、大同4(809)年のときでした。
空海は、国から20年の留学を命じられていたのにもかかわらず全く聞き入れないで、わずか2年で唐から帰国したために、帰国後、すぐに都へ入京する許可が得られなくて、3年もの間、諸国をさすらっていたのです。
でも、唐から持ち帰った密教の法具や経典は非常に貴重で魅力的なものであり、その「請来目録(しょうらいもくろく)」は朝廷にすでに提出されていました。
日本天台宗の開祖である最澄がこの目録を絶賛したこともあって、ついに、朝廷が空海の入京を許可することになるんですね。
さらに、嵯峨天皇が屏風の揮毫を空海に依頼したのをきっかけに、天皇と空海の間には友情のような信頼関係が結ばれることになります。
空海が入京を許されたのは、平城天皇に変わって嵯峨天皇が即位された後のことなのですが、これは決して偶然なんかじゃありません。
中国文化、特に詩書に造詣の深い空海を嵯峨天皇は重宝しました。嵯峨天皇にとって中国文化は憧れであり、詩書にたいする趣向にも強い思い入れがあったのです。
空海は、そんな唐の文化に精通していた嵯峨天皇としっかり結びつき、彼一代で真言密教というものをこの国に根付かせすことに成功したんですね。
さらに二人の絆を徹底的に結びつけたのが密教であり、その密教の宗教儀式の中心としてとらえられるのが、やはり加持祈祷なのです。
そう、当時、この加持祈祷こそが、天皇や国家を危険にさらす怨霊の鎮魂にもっとも役立つと認識され始めていたんですね。
ターニングポイント
そして大同5年、都を震撼させる歴史的事件が起こります。
弟の嵯峨天皇に譲位したはずの平城上皇がクーデターを起こし、都を真っ二つに引き裂こうとしたのです。そう、あの有名な「薬子(くすこ)の変」です。
宮女の藤原薬子や、その他とりまき連中にそそのかされた上皇が、平城京に都を戻すことで、再び実権をその手にしようと目論んでいたんですね。
実はこの少し前に、嵯峨天皇の叔父にあたる伊予親王が突然謀反の罪を着せられて死に追い込まれるなど、皇位継承を巡る宮廷内部の紛争の火種はいたるところでくすぶっていたのです。
嵯峨天皇はこの事態を打破するために、早急に兵を整え、平城側に武力による攻撃を仕掛けました。坂上田村麻呂などの活躍により、上皇と薬子は次第に追い詰められていくことになるのです。
薬子は毒をあおって自殺し、同じく首謀者であった薬子の兄の藤原仲成も射殺されました。
神輿にされた平城上皇も出家を余儀なくされるのですが、この嵯峨天皇側の勝利に、空海の修法が大きく貢献したと広く意識されることになります。
というのも、この時代、そもそもこのような事件が起きるのは、伊予親王などの怨霊が引き起こすのだという認識がされていました。
つまり、時代背景として、怨霊信仰というものが当たり前のように朝廷から庶民までの人々に概念化されていたのです。
結果、天皇を玉体安穏とせしめたのは、空海の密教における怨霊の鎮魂、つまり、その加持祈祷が多いに役立ったのだと誰もが認めることになります。
真言密教は怨霊の鎮魂という仕事において、神道や他の仏教では果たし得ないような力を発揮したとされたのです。
そう、この事件が解決されたことによって、鎮護国家、玉体安穏の最も有効な仏教は真言密教だと決定づけられることになったんですね。
そんな遠くに行かんかて
そこから、わずか10年足らずの間に、空海に対する国家からの信頼は揺るぎないものとなっていきます。
密教の修行道場の建造をかねてから計画していた空海は、すでに、山岳修行の聖地である高野山をその筆頭候補としてイメージしていました。
そして、その思いを朝廷に申し出て、ついに、弘仁7(816)年に許可されることとなります。
ここに、深い森の中である霊地・高野山に真言密教の根拠地は建てられたのです。
この地が約束の場所として、最もふさわしい場所であるには間違いはないのですが、ただ、あまりにも都から遠すぎました。
すっかり空海を慕っていた藤原冬嗣をはじめ、都の貴族たちは「なんも、そんな遠くに行かんかて、鞍馬山あたりでええやないか」と説得したのですが、空海の高野山に対するこだわりには並々ならぬものがあり、頑として聞き入れることはなかったといいます。
京都から高野山まで、その距離は90キロ。歩いて片道5日かかります。その気の遠くなるような距離を、空海は数えきれないほど往復したんですね。
そんな空海に、弘仁14(823)年、ついに朝廷は官寺であった教王護国寺(東寺)を下賜しました。
空海がその果てしない距離を何度も往復するさまを、正直、皇室や朝廷は、もう見ていることが出来なかったのかも知れません。
「もうええやろ空海、この寺があったら往復せんでも、ええのやろ」と、そう伝えたいために、貴族たちが空海に東寺を与えたといっても、決して言い過ぎではないのでしょう。
東寺はすでに鎮護国家の本拠地として、伽藍配置も決められ、金堂(本堂)の建設も進められていました。
それは、奈良仏教の寺院を前例として施工されていたのですが、空海はそれをベースにしながら独自の内容を付け加える手法を取ります。
たとえば、東塔と西塔というように寺院の塔はシンメトリーに配置されているものなのですが、東寺において西塔は建てずに、その位置に真言密教においてもっとも重要な灌頂院を置きました。
さらに、薬師三尊を本尊とする金堂はそのままに、その隣には、真言密教独自の曼荼羅思想を立体的表現せしめる講堂を造ったのです。
なぜ、東寺において灌頂院が最も重要な場所なのかというと、鎮護国家、玉体安穏を祈る真言密教の奥義を師から弟子へと伝える伝法の灌頂(かんじょう)が行われる場所、それこそが灌頂院だからです。
そして講堂とは、真言密教の根本思想を表す曼荼羅の世界を、21体の仏像と堂宇の一体化で立体化表現した場所であり、空海の構想のもとに、真言宗のすべての教理が表現された建物なのです。
最後の悲願
日本国の官寺であった東寺を、いつの間にか真言密教の根本道場として、その巨大伽藍に完成させた空海。
ですが、大陸から持ち帰った密教を、日本という国に真に根付かせるために、彼には、まだやり残していた最後の悲願があったのです。
それは、御修法(みしほ)を行う真言院を宮中に設立することでした。
御修法とは玉体安穏を祈願する密教の法会のことですが、これを宮中で行う場所こそが真言院なのです。
宮中に真言院が造られるということ、それが成し遂げられてこそ、真言密教が真の日本国の宗教になることが出来るのだと考えていたんですね。
そして承和元(834)年12月、悲願であった宮中真言院の設立は勅許されました。
空海はこの最後の仕事を終えて高野山に帰り、62歳の生涯を終えたのです。