なぜ元離宮と呼ばれるのか
明治元(1868)年2月3日、二条城に明治天皇が行幸されて、徳川幕府討伐の詔(みことのり)を発せられました。
薩長を中心とした討幕軍は、ここから江戸に進発します。
そう、遡ること260年前に、徳川家康が京での幕府の拠点として造築した、その在処からです。
徳川家は逆賊の恥辱を受け、江戸城の分身ともいうべき二条城の権威は完全に断たれました。
朝廷に召し上げられた二条城は、その後すぐに太政官代が置かれ、明治17年には宮内省所管となり『二条離宮』と名付けられたのです。
城下町のメインストリート
家康によって建てられた二条城の最初の目的は、典儀の舞台として使用するためのものでした。
ですが息子の第2代将軍・秀忠の時代、元和5(1619)年に、大阪城が修築に入り伏見城が廃されることになると、二条城の政治的役割はいやがうえにも高まります。
たとえば、洛中における二条城全体の配置から、主要街路の都市計画が組み入られるようになりました。
その二条通りにはさまざまな店舗がたち並び、かつての平安京の内裏を起点とした南北に走る朱雀大路にも匹敵する、東西に走る城下町のメインストリートが完成したのです。
都市デザイン手法・ヴィスタ
そして二条城の旧天守閣は、アイ・ストップ(目印)となるように、二条通りの西の突き当りに配置されていました。
二条通りを西に向いて歩くと、見事な天守閣の風景を見上げることが出来たのです。
これは両脇を建築物で遮蔽して目前のアイ・ストップに視線を集中させるヴィスタという手法です。
当時ヨーロッパで大流行していた都市デザイン手法であり、数多くの最新技術としての西欧意匠がこの頃の京都には垣間見られていたんですね。
他にもたとえば、二条城の池庭と書院の間には蘇鉄(ソテツ)が植えられていて、このソテツの植栽に呼応するように『蘇鉄の間』が設けられてます。
ソテツは当時の日本では自生できなかったはずです。
ソテツが日本で初めて見られたのは、1577年にキリスト教宣教師が京都に建てた教会でした。
日本の皇室や大名への献上品として、彼らの植民地だったゴア・フィリピン・マニラから宣教師たちによってソテツは持ち込まれたのです。
すべてを吹き飛ばす お公家さんのひと言
二条城の北に接する京都所司代屋敷からは、さまざまな法度や禁制が発令され、京都はしだいに徳川幕府の支配に組み敷かれていきます。
幕府がもたらしてくれた平和な世を、多くの洛中の人々は喜んでいましたが、矜持たる思いを持つ一部の町衆たちは、自由を守る気構えを決してなくしていませんでした。
そこには、天文の時代から自治を勝ち取ってきた先祖達の歴史があり、それを引き継いできた強靭な精神がありました。
その代表として、鷹ヶ峯に芸術村を営んだ本阿弥光悦は、徳川幕府の支柱でもある封建思想を「われらにはおかしく候へ」と強く批判したのです。
そして京都のお公家さんは、この城を決して『二条城』とは呼びませんでした。
「なんで都(みやこ)にお城が建ってんのやろ。いややわ~ほんまに」と思っていたので『二条第』としか呼ばなかったんですね。
徳川の封建思想も、本阿弥光悦の強靭な精神も、「いややわ~」の一言にすべて吹っ飛ばされてしまう。
まさにこういったエピソードこそが、京都という街の本質をあぶり出しているのです。