上賀茂神社    岩倉具視が復活させた葵祭

賀茂川上流にある御園橋(みそのばし)を渡ると、奥に上賀茂神社がしずまっているのが見えてきます。まるで王朝時代が再現されているように、丹塗りの鳥居と殿舎が、青い杉の木立のなかに立ち並んでいます。

神社建築の丹塗りは、緑の山や林に目に鮮やかな配色効果をもたらしているのですが、これを選び残したことにより、いま世界中で、古代日本人の優れた色彩感覚はそうとうなものだと絶賛されているのです。日本を訪れる外国人ナンバーワンの場所は、伏見稲荷大社の千本鳥居だという事実が、それを証明しているのかのようです。

f:id:kouhei-s:20190417170712j:plain

上賀茂神社の中心信仰は、きわめて古い原始時代から、そのまま生きている形で行われています。国の重要文化財を含む数十棟からなる壮大な本社は、神社の北に円錐形にそびえる神山(こうやま)に降臨するワケイカズチノカミを遙拝する施設です。信仰の対象はあくまで神山ですので、上賀茂神社は山岳信仰の社といえます。

それは、神奈備(かんなび)信仰とよばれている森や山そのものが神体という思いであり、上賀茂神社と神山のあいだからは、縄文土器や弥生式土器、石器が多く発見されています。これは、この付近に古代文化のひらけた年代が、三千年以前にさかのぼることを証明しているのです。

上賀茂神社は、天武天皇の時代678年に現在の社殿のもとが造営され、807年には、朝廷から正一位の神階をたまわり、下鴨神社とともに国家鎮護の神として大切にされました。

そして、819年に、賀茂祭が朝廷のもっとも重要な恒例祭祀に準ずる勅祭になりました。賀茂祭が葵祭とよばれるようになったのは、江戸時代の初めからですが、牛車・勅使・衣装にいたるまで葵の葉で飾ることから、そう名付けられたのでしょう。

葵祭は維新の混乱で明治3年から廃止されていましたが、明治17年に岩倉具視の力によって復活します。岩倉は、明治天皇とともに「ちょっと行ってくるわ」といって江戸に出かけ、江戸から東京と名を変えた場所に居座って帰って来ませんでした。

岩倉は後ろめたさを感じていたのしょう。故郷が衰退していくのをなげいて、京都の再建案を次々に発議していきます。葵祭も岩倉の発議によって、ついに下賜金をたまわり見事に復活するのです。ちょうど、この頃から琵琶湖疎水による日本最初の水力発電所、紡績工場や西陣織などの産業の電化、日本最初の市街電車の開通など、近世京都の基礎が整備されはじめます。