銀閣寺  義政が遺した東山文化の象徴

義政の治世の結果は焦土だった

室町幕府八代将軍足利義政は、弟の義視を還俗させてあと継ぎに定め、義視が住職をしていた浄土寺の一角に慈照院を造り、自分はもう隠棲しようとしていました。

ところが、妻の日野富子が義尚を生みあと継ぎ争いが起こり、それがひとつの要因となり応仁の乱(1467〜1478)が誘発されることになります。

応仁の乱は諸大名の領土問題なども絡み、11年もの長い期間に及び続きました。

そして、京都の街は徹底的に焼き尽くされて、すべてが焦土と化したのです。

つまり、いってみれば義政の治世の結果は焦土でしかなかったんですね。

それは義政にとっても耐え難い事態でした。でも、あらゆる策を打ち出しても結果が出なかった。そんな状況だったのかもしれません。

その後、文明14(1482)年に義政は将軍職を退き、浄土寺の跡に東山殿という広大な山荘を造り始めます。

文化の面でリーダーシップを発揮しようとした義政は、山荘の造営と美術品の蒐集に情熱を傾けたのです。

また、目利きのある僧を身近において、審美眼を高め東山流茶の湯を確立させました。

そして山荘を造り始めてから9年後、すべての完成を目前に控えていたその時に、病でこの世を去ります。

山荘は義政の死後、遺言によって慈照寺という禅宗の寺になったのでした。 

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黒漆に月明かりが照らされた銀閣

金閣に対応して京都の人々が銀閣と呼ぶようになった建物が、観音像を安置する観音殿です。

長享3(1489)年から、当時のまま残っている貴重な遺構の国宝です。

金閣は豪華絢爛な金箔に覆われていますが、銀閣には銀箔が貼られていません。

銀閣は黒漆(こくしつ)で仕上げられているのです。

日も暮れて、背後の月待山から銀閣の上空に満月がのぼってくると、二階部分の黒漆には月明かりが照らされ光輝きました。

まさに、これこそが義政の求めていた美への追及であり、山荘造営の目的だったのです。

もう一つの国宝は、当時のまま保存されている東求堂という建物ですが、方丈の隣にうずくまるように建っています。

そして、その中の北東に面している畳敷きの部屋が、義政自身が客をもてなした茶室の同仁斎(どうじんさい)です。

義政は晩年をこの小さな部屋で一人瞑想にふけりながら過ごしたと今に伝わります。

この部屋は室町時代の書院の貴重な遺構です。

書院とは書斎の意味で、お寺の中で仏書を読む場所なのですが、日本で初めて四畳半という間取りを取り入れた茶室の発祥地がこの同仁斎なんですね。

ただ同仁斎における茶の湯の備えは仏間の仏に茶を献じるためで、のちの、客に茶をたてる草庵の茶室ではなかったのです。

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受け継がれた義政のこだわり

境内に入り唐門をくぐると、富士山の様な形をした向月台と呼ばれる砂山が真っ先に目に映ります。

その下には、縞模様と湾曲が印象的な白砂に敷き詰められた銀紗灘という敷地が広がっています。この庭は100年以上のちの江戸時代初期に作庭されました。

この白砂には水晶と同じ成分である石英が含まれていて、月明かりに照らされると青白く幻想的に反射するように作られています。

まさに、月明かりを取り入れるという義政のこだわりが、確かに後世に受け継がれていたのです。

そして、この頃から京都の人々は、慈照寺を銀閣寺と呼び始めたんですね。