悪国師の名を受けて 徳川家康には、極めて優秀で才覚に長けた徳川幕府三百年の治世の基盤を築き上げたブレーンが二人いました。 一人は、民衆に絶大な人気のあった天台宗の傑僧・南光坊天海。 そして、もう一人は「悪国師」と呼ばれ、人々を苦しませる悪役の…
京都三大観光地 新型コロナの影響で、京都の観光地も本当に人が少なくなりました。 国内からおこしになられる方たちだけでは、この10年くらい続いた混み具合には、たぶん、もうならないでしょう。 インバウンドの人々が訪れることのないこの期間は、いつま…
舟を浮かべて盛大な宴 金閣といえば派手で強烈な光を放っているイメージがありますが、実際に境内へ足を踏み入れて眺めてみると、優しく気品ある光に包まれています。 また、季節や天候によって様々な美しい姿を魅せてくれるのですが、晴れた日よりも少し曇…
征夷大将軍・坂上田村麻呂 清水寺が国から公認されたのは、805年のことです。 できたばかりの平安京では、寺院の新設・奈良からの移転は禁じられていましたので、国家公認の東寺・西寺以外の寺院は存在していませんでした。 清水寺だけが例外的に、特別に…
なぜ元離宮と呼ばれるのか 明治元(1868)年2月3日、二条城に明治天皇が行幸されて、徳川幕府討伐の詔(みことのり)を発せられました。 薩長を中心とした討幕軍は、ここから江戸に進発します。 そう、遡ること260年前に、徳川家康が京での幕府の拠…
東海道中膝栗毛の舞台となった華やかな一面とはうらはらに、三条大橋には数々の悲話が伝わります。 豊臣秀次の妻・側室侍女とその幼児たちが秀吉によって首うちにされたり、橋のすぐ近くの池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士が新撰組に襲撃されたりした、や…
臨済宗を中心とした禅宗は、宋・元の美術や喫茶などの最新の中国文化と共に、鎌倉時代から南北朝時代にかけて日本へ伝わりました。 そこから江戸時代まで、禅院で花開いた禅宗美術は、いまも名刹の特別公開などで展示され、訪れる人々を魅了してやみません。…
納涼床のはじまり 鴨川が良く見える位置に座席が設置されて、懐石や割烹・京料理を楽しむ、夏の風物詩である納涼床の季節がやってきました。 夕暮れ時に一杯やりながら目に映る、マジックアワーに包まれた鴨川の風景は格別です。納涼床が年中行事化となった…
洛中に今も伝わる逸話 室町時代に創建された本法寺。 その京都市民たちが誇る名刹は、さまざまな法難に遭いながらも正面から立ち向かい、ねばり強く布教を続けた日蓮宗の本山です。 一方で、京都・洛中には、本法寺に因んだ今も伝わるこんな美しき逸話も遺さ…
かよい慣れた道、いつもよりゆっくりと歩く夕暮れの錦通り。 新型コロナのはやりで、本当に人がいないので、なんだか違う景色に見えます。 ここは、普段ならインバウンドの人々で溢れるグルメロードと呼ばれる有名な市場。いまは、人影もまばらです。 その為…
応仁の乱からの復興 京都の街を焼き尽くした応仁の乱。絶望的状況がなんとか収束に向かったとき復興に尽力したのは、町衆と呼ばれる富裕層の商売人たちでした。 その大半の人たちは法華宗門徒だったので、法華宗の信仰は京都の中心部に浸透します。 「題目の…
池田輝政の妹 妙心寺の塔頭のひとつである天球院が建立されたのは、寛永8(1631)年のことでした。 姫路城主の戦国武将・池田輝政の妹の天球院という院号から天球院という名は名付けられているんですね。 因幡若狭城主に嫁いだ彼女は、離縁し池田家に戻…
路地裏をせくように歩く舞妓さん 紅殻格子(べんがらごうし)のお茶屋が立ち並ぶ、京都を代表する花街。軒下の提灯に明かりが灯りはじめる夕方になると、舞子さんが通りの角から少しせくように現れます。 そんな情緒を感じられる花見小路あたりが祇園(ぎお…
城下町に集う酒蔵 豊臣秀吉が築城した伏見城によって、伏見地区は天下の巨大な城下町になりました。 この活気が、伏見の銘酒とよばれる甘口のお酒の需要を、一気に増大させます。 人々の賑わいと共に、この地は名水が湧き出る場所であり、多くの酒蔵が集まり…
道幅3メートルほどの両側に、京野菜や川魚・湯葉・漬け物など、京都ならではの食品を扱う店が並ぶ「京の台所」と呼ばれる錦市場。 いまでは小売りだけではなく、店舗の一部を改装するなどして、自前の食材がその場で食べられるお店が増えてきています。買い…
杮葺きの本堂の天授庵は、南禅寺の巨大な三門のすぐ傍にただずんでいます。 池縁を深紅の紅葉が包み込む池泉回遊式庭園、さらに本堂の前庭には、広がる枯山水庭園があり、ふたつの趣を感じることの出来る景観は、訪れる人々を魅了してやみません。 徳川家が…
ビューポイントの門前 今ではすっかり紅葉の名所となった洛北の曼殊院ですが、15年ほど前までは、訪れる人もそんなに多くなかったようです。 樹々にふちどられた緩やかな坂道をまっすぐに上がっていくと、勅使門と淡青色の漆喰塀が見えてきます。 燃えるよ…
東本願寺の飛地境内地にある仏寺庭園 平安時代初期、9世紀の終わり頃でしょうか、嵯峨天皇の皇子であり左大臣でもあった源融が建造した六条河原院という静かな別荘地がありました。 渉成園はその苑池の遺跡と伝えられていて、承応2(1653)年、本願寺…
一度は訪れたい国宝の客殿 東寺の子院を代表する存在であり、教学研究で優秀な学僧を多く輩出した観智院。 延文4(1359)年に後宇多天皇の遺志によって創建されました。 その後、徳川家康によって真言一宗の勧学院と定められます。 慶長10(1605…
聖徳太子と小野妹子 ゆかりの古刹 洛中から十数キロ離れた大原の里にたたずむ寂光院。 聖徳太子が自ら造った地蔵菩薩像を安置して、父・用明天皇の菩提を弔うために開創しました。 大原には太子が創った寺院が数多く有り、実光院の地蔵菩薩や通称蛇寺の阿弥…
嵐山の麓にある紅葉の名所 朱色に燃える楓に包まれた獅子吼の庭。寛正2(1461)年に創建された宝厳院は、嵐山・天龍寺の塔頭寺院です。 江戸時代に京都の名所名園を収録した「都林泉名勝図会」にも紹介されている(獅子吼の庭)。ここは、嵐山の借景を…
屈辱に耐えて発展した名刹 臨済宗大徳寺派の大本山である名刹・大徳寺は、戦国武将たちが創建した数多くの塔頭を持ちます。 花園上皇や後醍醐天皇の手厚い援助を受けていた大徳寺は、反体制側の足利将軍家が天下をとる時代になると理不尽な扱いを受けるよう…
斎宮が心身ともに聖女となる場所 天武天皇の時代以降、華やかな宮廷に生まれ育った内親王・女王の中から、伊勢神宮に仕える聖女として斎宮はえらばれました。 国家の祭祀を担当する重責を負いながら、年若く、身清くして単身で伊勢におもむき、天皇の御手代…
山崖にはりついた堂宇 およそ1000年前から、山寺らしい雄大な紅葉が見どころの永観堂。 正しくは禅林寺という浄土宗・西山禅林寺派の総本山です。 寺域の楓は3千本を超えていて、季節になると境内が真紅の色で染めつくされます。 そして、山の斜面に寄…
16世紀になって再興された現在の退蔵院 退蔵院は妙心寺の塔頭(本寺の境内にある小寺)で、創建1404年という古い歴史を持ちます。 花園上皇が創った本寺の妙心寺は足利義満に圧迫されて、寺名を竜雲寺と変えられていたほど苦境にありました。 ですが、第…
利休が造った茶室 主君・織田信長の仇うちのために明智光秀を滅ぼした豊臣秀吉は、乱世を制して天下布武を実現しました。 その復讐の舞台となった天王山を抱く山崎の地、そこにたたずんでいるのが古刹・妙喜庵(みょうきあん)です。 そう、この山崎の合戦後…
神が乗ってきた貴船 貴船川の右岸に建つ貴船神社は、1300年前の建て替えの記録が残っているという古い歴史を持ちます。 そして貴船の神は、賀茂川をさかのぼってこの場所にきたという伝承があるんですね。 今は貴船と書きますが、神が乗ってきた「黄色い…
天台宗五門跡という高い寺格を持つ毘沙門堂、山あいにたたずむ風情のある山寺です。 秋になるとこの辺り一帯が紅葉し、洛中とはまた違った雄大な風景を見ることが出来るのです。 円山応挙 遊鯉 そして、是非ご覧になっていただきたいのが、円山応挙の衝立(…
国宝の釈迦如来像 寛平6(894)年に遣唐使が停止されてから約1世紀後、東大寺の僧である奝然(ちょうねん)が、密教を研究するために中国(宋)主要部へ向かいます。 それは、古代日本人の最大の旅行記といわれ、その期間は約20ヶ月におよびました。 …
王朝趣味の本質に合致した景観 それは鎌倉時代のこと。 後嵯峨上皇が仙洞亀山御所を造営するとき、大量に移植したのが、吉野の山桜の苗木でした。 その桜が満開になったとき、一陣のつむじ風が吹き、花びらが嵐のように飛び散ります。 その様を見た上皇は、…