東福寺 【画聖 明兆】 ホンモノは全然違うのです

臨済宗を中心とした禅宗は、宋・元の美術や喫茶などの最新の中国文化と共に、鎌倉時代から南北朝時代にかけて日本へ伝わりました。

そこから江戸時代までの禅院で花開いた禅宗美術は、いまも名刹の特別公開などで展示され、訪れる人々を魅了してやみません。

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雪舟に大きな影響を与えた明兆

まず最初に、禅宗美術の代表的な作家として、南宋の末期から元の初期にかけて活躍したのが牧谿(もっけい)です。長谷川等伯・伊藤若冲などの日本の画家、日本の水墨画に甚大な影響を与えた、近代以前の日本で最も敬愛された外国人作家の一人です。

また、相国寺で修業した室町時代の禅僧画家である雪舟は、『天橋立図』をはじめ6点の作品が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けています

東福寺の塔頭寺院・芬陀院(ふんだいん)には、彼が作庭したと伝わる枯山水庭園が遺されていて、京都では昔から雪舟寺と呼ばれているんですね。

そして、その雪舟の画法に大きな影響を与えたといわれるのが、東福寺で活躍した天才画僧・明兆(みんちょう)です。東福寺に数々の作品を遺している明兆は、文和元年(1352)淡路島で生まれ、後に安国寺という寺で、大道一似という高僧の弟子になります。大道一似が東福寺に戻るときに一緒に都へ上ることになりました。

ある日、東福寺で絵を描くことに夢中になってほとんど修業をしなかった明兆を、みかねた大道一似がこっぴどく叱りつけます。

ですが、しばらくして、明兆の描いた絵をはじめて見た一似は、驚嘆のあまり絶句します。そして次の日、明兆を法堂に呼び出して静かに言いきかせました。「あ~、明兆、今日からお前は、ず~と絵だけを描き続けなさい、いいからそうしなさい」

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特別公開 『大涅槃図』

明兆が東福寺に残している作品は『達磨 蝦蟇 鉄拐図 三幅』・『円爾弁円(聖一国師)像』・『大涅槃図』などですが、巨大な伽藍を持つ東福寺にふさわしい、まさに巨大な作品群なのです。

東福寺で3月に行われる涅槃会では、本堂が開放され『大涅槃図』が御開帳されます。この迫力の縦12m・横6mの大涅槃図を目の前で見たとき、東福寺を訪れて本当に良かったと思いました。

明兆が描く作品の特徴は、色彩の濃淡やひとつひとつの図の形が千差万別というか、同じ画面の中で誠に多様で見事に描き分けられている点です。比類を絶するきめ細かなその色彩は、いつまで見ていても飽きることはありません。

仏を自己の中に見いだす宗教である禅の精神。その個性開放の精神を、明兆は全身全霊で絵画によって表現しようとしたのです。

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約20年の間、仕事上の関わりであらゆる絵画を、私はこれまで目にしてきました。芸大出身の若手作家から、パン画(生活のために描く絵)、現代アート、物故作品、重文・国宝の作品まで。

大して知識もテキストの蓄積もありませんが、肉眼でひたすら数だけは見てきました。その量が増えるにつれて、ホンモノは全然ちがうんだということが、少しだけ分かった気がするのです。

日本美術の発見者 フェノロサ

アメリカの東洋美術研究家で日本美の発見者であるアーネスト・フランシスコ・フェノロサ。新日本画の創造を図り、日本の美術行政、文化財保護行政にも深く関わった彼が、明兆について残した詩を以下に紹介します。

 この眼はものごとを射通し 深奥を見ぬいた それは峨峨たる山なみを貫く花崗岩の岩脈のように力強く 天下無限の琵琶の音のごとく澄んでいる
 西方よりの巡礼(である私)は狼狽して立ち止まり 名だたる文人墨客ものしてきたあまたの珠玉(のごときことば) がまばゆい山となって画家を褒めたたえているところに ただ一石 この詩を投じるのみだ    *日本訳

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禅の目的は、座禅や作務、あらゆる日常の体験を通して、仏と同等の境地に至り真の自由人となること。そう教わりました。そのなかでも臨済禅は、数ある日本仏教の宗派の中で取りわけ芸術を重んじる宗派なのだと、東福寺は感じさせてくれるのです。