三条大橋 『知らん顔』した街並み 擬宝珠に遺された悲しき傷痕

東海道中膝栗毛の舞台となった華やかな一面とはうらはらに、数々の悲話が三条大橋には伝わります。

豊臣秀次の妻・側室侍女やその幼児たちが秀吉によって首うちにされたり、橋のすぐ近くの池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士が新撰組に襲撃されたりした、やりきれない痛ましさを感じる場所でもあったのです。

f:id:kouhei-s:20200606232925j:plain

300年の間 変わらぬ石柱

京都三大橋と呼ばれる鴨川に架かる橋は、三条大橋・四条大橋・五条大橋の三つですが、古くからの鎌倉との往来にあたって、三条通りに架かる橋は京都側の中枢的な出入口でした。

初めて本格的な三条大橋を架けたのは豊臣秀吉で、それまでは洪水が起こるたびに簡単に流されていたのです。

天正18(1590)年、秀吉から工事奉行に任命された増田長盛が、川床に石柱63本を立て、全長100メートル、幅7メートルの強固な大橋を完成させます。

それは、欄干を豪華な紫銅の擬宝珠(ぎぼし)で飾りつけた、都の玄関口にふさわしいものに仕立てられ、多くの行き交う人々で賑わっていました。

このとき長盛が施工した石柱は、架け替えがおこなわれる明治末期までの300年の間、そのまま用いられていたのです。

延宝7(1679)年の頃には、三条大橋の長さは75メートルくらいに短くなりました。

その数年まえの寛文年間に鴨川堤の大改修がおこなわれ、護岸工事によって川幅が狭まったためです。

そして、現在の三条大橋は全長74メートル、幅15メートルの大きさで、昭和26年に施工されたものです。

f:id:kouhei-s:20200606233012j:plain

庭や山が美しゅう知らん顔してるわ

『飢餓海峡』『五番町夕霧楼』などの作品で著名な小説家の水上勉は、9歳で若狭から上京し、相国寺塔頭・瑞春院で小僧になり修業するなど、京都にゆかりの深い人で、京都の街を題目とした著作が多いことで有名です。

そのなかのひとつに、丹波や丹後から京都市内へ集団就職で上京してきた苦悩する若者たちと、それを見守りつつ自分たちも満たされない大人たちを描く、三条大橋を中心として鴨川・琵琶湖疎水・白川を舞台にした『古都暮色』という小説があります。

京都というところは本当に冷たい街で、よそから来た人にそっけない。そんな水上自身の感情をさしこむように、登場人物の茶屋の女将に次のように語らせます。

「京いうとこは底の知れん人間地獄をつつんで、庭や山が美しゅう知らん顔してるわ」

そう、この『知らん顔』という(用言の連体形+名詞)の名詞句は、京都の日々の暮らしの中でほんとうによく出てくるのです。

f:id:kouhei-s:20200606233143j:plain

『一定期間』と『知らん顔』

京都市内、その中でも上京・中京・下京といった洛中の地域はやはり独特の雰囲気があります。

最近ではマンションも多く建ってますので、様変わりしてきましたが、まだまだウチ・ソトの町内意識が強くて、よそから越して来た人によそよそしいところがあるんですね。ただ、人間地獄はそんなにないと思います(笑)

もちろん悪気はないので、『一定期間』が過ぎると、それまでが信じられないくらい仲良くなります。

子供のころから「知らん顔はやめましょう」という大人たちの掛け声をずっと聞いてきた記憶があるのです。

その『一定期間』を出来るだけ短くしなければならないと、みんな気付いていたからでしょう。

どうして『一定期間』が必要なんだろう。と思われるかもしれませんが、ちょっと気を緩めると、自分の意思とは関係なく、京都市民は『知らん顔』してしまうのです。

f:id:kouhei-s:20200607001416j:plain

でも、『知らん顔』には、もうひとつの大切な使い方があります。

たとえば、まわりにいる友達やご近所の人、会社の仲間たちに、何か良くない悲しい出来事がおきてしまったとします。

こちらの耳にはなんとなく聞こえてきているのですが、当の本人は何ごともなかったように、早く忘れて普通の日常を過ごしたいと感じている。

こっちもその気持ちがよく分かる。悲しみを思い出させたくない。しばらくして、その仲間に会ったらどうすればいいのか。

「おはようさん。今日は早いな、やる気マンマンやな~、え~おい」そんなふうに『知らん顔』で言葉すくなに話しかける。たぶん、それでいいのでしょう。