城下町に集う酒蔵
豊臣秀吉が築城した伏見城によって、伏見地区は天下の巨大な城下町になりました。
この活気が、伏見の銘酒とよばれる甘口のお酒の需要を、一気に増大させます。
人々の賑わいと共に、この地は名水が湧き出る場所であり、多くの酒蔵が集まりました。
東山南部の桃山丘陵地帯から水脈となって自然に地下に染み込んだ伏見の水は、時間をかけて栄養を蓄えた上質な天然水です。
地下水が通る伏見の地層は花崗岩で出来ているので、適度なミネラル分を含みます。
その硬水は3、4度と少し低めであることから甘口の酒を造るもととなったんですね。
いまでも伏見には、七つ井とよばれる名水の井戸があって、さまざまな酒造会社によって使用されているのです。
再び建てられた伏見城
慶長3(1598)年、秀吉は築城わずか5年でこの世を去りました。
その2年後には、逆に徳川方が護る伏見城が豊臣方によって滅ぼされ、関ヶ原の戦いが起こります。
この戦いで勝利した徳川が再び伏見城を修築したことによって、城下町の活気は取り戻され、三代将軍の家光の時代まで続きました。
ですが、その後、家光は伏見城を徹底的に解体して、近畿圏の社寺に移築させていきます。
家光は豊臣の栄華が見える遺構を、容赦なく消滅させましたが、城下町にあった武家屋敷の「毛利長門」「井伊掃部」などの武将名の地名だけは残りました。
港町となった伏見
家光によって、伏見の城下町としての歴史は閉ざされましたが、ちょうどこのころ参勤交代が始まります。
淀川をさかのぼって陸路東海道を江戸に向かう西国大名たちの上陸地点となった伏見の地は、大規模な商家・宿場・倉庫が建ち並び、今度は港町として再出発することになりました。
明暦3(1657)年の記録によると、このころ酒造家83件、1年に仕入れられた米は一万五千六百十一石とされ、まさに伏見は、国内でも有数の酒の大生産地となっていたのです。
伏見の酒の販路は、明治中期以降に急速的に全国に向けて展開されました。
他に類をみない、やや甘口できめ細かく柔らかな酒、いわゆるマイルドな酒として、大消費地である関東地区の市場に高評価で受け入れられたのです。
社員による酒造り
老舗の酒造家として名高い有名なメーカーから、明治43年に発売されたコップ付き小瓶は、「防腐剤入ラズ」の伏見酒の代表的な銘柄として全国にその名をとどろかせました。
機械化された酒造で、社員による四季醸造を初めて可能にしたのも伏見酒のメーカーでした。
醗酵(はっこう)とはたんなる菌の媒介による有機物の化学変化にすぎない。
その考えをもとに、どんな性質や味わいのものでも、人工で科学的に仕上げていく。
大切なのは、アルコール飲料独得の味と香気を科学的に解明し合成させること。
そんなふうに酒同士の香味の相性を見いだし、ブレンドさせることによって、単独なもの以上の複雑な味わいを、伏見酒は私たちに提供してくれるのです。
伏見はいまでも古くからの酒蔵が立ち並び、その前には、伏見城の外濠だった小さな濠川(ほりかわ)がゆっくりと流れる特有の景観の雰囲気が漂っています。
少し南へ下り、宇治川に架かる観月橋を渡ると、宇治から奈良へとまた違った魅力ある世界に、道は続いていくのです。