宝厳院  漱石が心癒された獅子吼の庭 「京に着ける夕」

朱色に燃える楓に包まれた獅子吼の庭。寛正2(1461)年に創建された宝厳院は、嵐山・天龍寺の塔頭寺院です。
江戸時代に京都の名所名園を収録した「都林泉名勝図会」にも紹介されている(獅子吼の庭)は、嵐山の借景を取り入れた、京都でも有数の紅葉の名所です。
獅子吼とは「仏が説法する」という意味で、自然にふれることで、人生の真理・正道を肌で感じることを「無言の説法」といいます。

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明治期の日本を代表する作家の夏目漱石が、明治40年に宝厳院を訪れています。漱石41歳のときで、彼にとって二度目の京都旅行でした。そして、この旅で見聞きしたことが、しばらくして、小説「虞美人草」として朝日新聞に連載されることになります。

この「虞美人草」とは別に「京に着ける夕」という短い文章があるのですが、京都の黄昏時を見事に描写した内容で、京都で日々の暮らしをする私たちの心に、静かに染み込むような文章なんですね。

『唯さへ京は淋しい所である。原に真葛、川に加茂、山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔の儘の原と川と山の間にある。一条、二条、三条をつくして九条に至っても十条に至っても、皆昔の儘である。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも、京は依然として淋しからう。』

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この二度目の京都旅行は、京都帝国大学文科大学長に招かれていたので、京都駅から学長の家のある下鴨まで、漱石は夕暮れの京都を人力車に揺られていました。

『所々の軒下に大きな小田原提灯が見える。赤くぜんざいとかいてある。人気のない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まって居るのか知らん』

黒い字で「ぜんざい」と書かれた赤い提灯を見ると、はじめての京都旅行に、ともに訪れた親友の正岡子規の顔を漱石は思い出してしまうのです。それは15年前のことでした。
でも、いまとなっては子規はもうどこにもいない。

子規と一緒に見た京都の風景を、ふたたび一人で見た漱石は泣きそうになりました。亡くなった大切な人へのかけがえのない想いは、何気ない日常の中に突然よみがえってくるのです。そして、その残された人たちは、悲しみの記憶へと引き戻されます。

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翌日、天龍寺を訪れたあと漱石は、ゆっくりと大堰川にむかう道の途中で、ふと宝厳院に立ち寄ります。そして、獅子吼の庭を訪れたことで、漱石は心が癒されていくのを感じます。庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聞きながら、遠い記憶の秋の日に、はずかしそうに笑っていた子規の顔を思い浮かべるのです。

このとき、漱石は‌人生の転換期にありました。それまでの大学での教職という仕事を辞任し、朝日新聞の専属作家になるという、新たな生活が待っていました。これからは、自身の筆一本の闘いの日々がはじまります。

逃げ道のない場所に身を置かなければならないのです。でも、何も恐れることはないと、漱石は気概を抱いていました。それは、獅子吼の庭を訪れたことで、亡くなった子規がきっと見守っていてくれるに違いないと、確かな想いを持つことが出来たからでした。