退蔵院  元信の庭  天才絵師の家系

退蔵院は、妙心寺の塔頭(本寺の境内にある小寺)で、創建1404年という古い歴史を持ちます。花園上皇が創った本寺の妙心寺は足利義満に圧迫されて、寺名を竜雲寺と変えられていたほど苦境にありました。

ですが、第三世の宗因禅師(そういんぜんし)の高徳を慕った越前の豪族・波多野出雲守重通(はたのいずものかみしげみち)が、禅師のために境内に退蔵院を造ったのです。
ところが、60年ほどで応仁の乱によって全焼してしまいます。その後、16世紀になって亀年禅師(きねんぜんし)が再興させたのが現在の退蔵院です。

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室町後期の天才絵師である狩野元信(もとのぶ)は、妙心寺との縁が深く、塔頭・霊雲院をひらいた大休国師宗休(そうきゅう)に帰依していたので、霊雲院にしばらく住んでいたほどでした。
その流れから、70歳のとき元信は退蔵院の西庭を作庭します。

それは「元信の庭」とよばれ、手前の石の線は徹底的に横の線を使い、滝組などの奥の石の線はまたそろって立ての線を利用して、まさに彼の描く水墨画と同じような遠近感で表現されています。植え込みに後方をさえぎられたこの庭の大きさは50坪ほどですが、しばらく見ていると、視界がどんどん広くなっていくような気がするのです。

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応仁の乱の直前、足利将軍家の御用絵師となった狩野派の初代・正信(まさのぶ)が、唐突に歴史に姿を現しました。その息子である二代目・元信は、絵師集団としての盤石の地位を、戦国の動乱の中で固めていきます。

家督を継いだ元信が、狩野派の画風と組織を真に確立したと言われていますが、それは、父親以上に明解かつ端正な画風を創出することに、彼が成功したからです。
画図の構成力が天才的に突出していた元信は、弟子たちに規範となるべき描き方を、非常に理解しやすい形で提示したんですね。

当時のスタンダードな画風は、有名な中国画家の筆様をなぞった画法で、夏珪様・牧谿様などと呼ばれていました。ですが、元信は空間構成や諸景物の形態などを統一させることで、絵をわかりやすくする「型」を示して、画法に対する画体という手法を確立しました。
弟子たちからすれば、手本となる「型」が明瞭であればあるほど体得しやすく、そこからまた自身のオリジナリティも波及させていけたのです。

その描き方は、まず最初に実物大の比率を用いて、樹木や岩や滝で画面の枠組みを表現します。
すると、画面に現実空間のイリュージョンが生まれるので、その中に花鳥や人物を配置するのです。それはのちに、西欧のルネサンスの幾何学遠近法に対して、東洋的遠近法と評価されました。

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この表現は、隔世遺伝で天才の血を受け継いだ孫の永徳によって完成されたものとなり、やがてそれは、近世日本画の基礎となったのです。そして、狩野派の400年という長い歴史の中で、極めてレベルの高い天才絵師は3人だといわれています。

それが元信と、永徳・探幽ですが、永徳は元信の孫であり、探幽は永徳の孫です、つまり、室町時代から江戸時代初期まで、一代おきに天才絵師を輩出しているんですね。
その他の狩野派の絵師も一定のレベルの腕は持っていましたが、画家としての次元が違っていたのです。